コロー


ジャン・バティスト・カミーユ・コロー

(1796年~1875年)は、19世紀のフランスの画家で、詩情あふれる森や湖の風景画で知られるが、「真珠の女」のような人物画も有名である。計3度のイタリア旅行で画風を広げ、イタリア絵画の持つ明るい光と色彩を吸収している。描いた風景は理想化された風景でなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き、自然の風景を明るい色彩と光でよりリアルに見せた。コローは後の印象派のモネやルノワールに大きな影響を与えている。最後の写実主義の風景画家であるが、同時に最初の印象派の風景画家といわれるほどである。また温厚な人柄から多くの画家から敬慕された。
 1796年、コローはパリの裕福な織物商人の子として生まれた。母親は婦人帽子店を経営し、母から豊かな感受性と洗練された美意識を受け継ぎ,早くから絵を好んだ。学生時代はポワシー(パリ近郊)の寄宿学校で学んだ。コローは画家になることを希望するが、父親が反対したため、いったんは織物商人として見習いになる。しかし商売に身が入らず,夜は画塾に通い,週末は父がパリ近郊に購入した別荘で画業に熱中した。1822年ようやく父親の許しを得て画家を志し、風景画家のミシャロン(1796年 - 1822年)に弟子入りする。当時26歳で、画家を志すには遅いスタートであった。

 父親が画家になるのを許したのは、前年の1821年に妹が死去して、両親はこの妹のために用意していた持参金をコローのために使うことを決めたからである。ミシャロンはコローと同年生まれの若手風景画家であったが、コローが弟子入りしてから数か月後、「見えるものを丹念に描く」という教えを残し26歳の若さで他界した。ミシャロンを失ったコローは、ミシャロンの師であるベルタンに師事することになる。ベルタンは大きな画塾を構え、当時のフランス風景画の第一人者であった。

 コローは生涯に3度イタリア旅行をしている。1回目の旅行はもっとも長く、1825年9月から3年におよんでおり、ローマとその近郊、さらにヴェネツィアに滞在している。この時、戸外での風景画には、色彩感覚や構図などに近代的感覚を加えたものが多く、後の印象派の画家たちに影響を与えている。その後1834年と1843年にも半年ほどイタリアに滞在している。
 またコローは晩年に至るまでフランス各地を旅行し、各地の風景をキャンバスに描き、特にパリの西の郊外にあるヴィル=ダヴレーには、父が購入した別荘があったことから頻繁に滞在している。またバルビゾン派の聖地であるフォンテーヌブローの森でも早くから風景画を描いている。
 サロン(官展)には、イタリア滞在中の1827年に「ナルニの橋」(カナダ国立美術館)などを出品し、以来、晩年まで精力的に出品していて、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命されている。また1855年にはパリ万国博覧会に6点の作品を出品しグランプリを得ている。晩年は大家として認められ、死の直前までフランス各地への旅行と絵画の制作を続けていた。コローは1875年2月22日、病のため没した。生涯独身であった。「コローおじ」と慕われる温好な人柄であった。
作風と影響
 コローの風景画は、神話や歴史物語の背景ではなく、ありふれた風景を描いていた。特に1回目のイタリア滞在の際に描いた風景習作には、その光の明るさや大胆なタッチなどに独自性がみられる。コローの風景画は、春から夏に戸外で描き、秋から冬にかけてアトリエで仕上げるというものであった。

 人生後期には、画面全体が銀灰色の薄靄に包まれた風景画を描いた。このような風景画は、現実の風景をそのまま再現させた絵画ではなく、現実の風景を土台にして想像上の人物を描いた叙情的風景画である。コローは、このような風景画のいくつかに「思い出」というタイトルをつけている。
 人物画は、親戚や友人など親しい人たちの肖像画と、モデルに民族衣装などを着せて描いた空想的な人物像に分けることができる。著名人の肖像画はほとんど残していない。
 コローの作品は、モダニズムを先取りしたもので、後世の美術家に多大な影響を与えている。ピサロは1855年のパリ万国博覧会でコローの作品を見ており、ピカソは何点かのコロー作品を収集していた。1909年にサロン・ドートンヌで開かれたコローの人物画の特別展示はピカソらに影響を与え、ヨーロッパ以外では日本でもコローは早くから紹介され、影響を受けた画家が多い。
 コローは、ミレーやテオドール・ルソーなどの画家と親交があり、バルビゾンで作品を描く事も多かったので、バルビゾン派の一人に数えられている。また、晩年にはドーミエら貧しい画家を援助し、多くの画家から慕われていた


真珠の女
1858-68年頃 70×55cm | 油彩・画布 |
ルーヴル美術館(パリ)

 コローが死去するまで手放さず客間に飾っていたことから、コローが最も好んでいた作品であることがわかる。コローの近所に住んでいた古織物商の娘ベルト・ゴールドシュミット(16-17歳の頃)をモデルに描いている。女性は木の葉の冠を着けているが、額部分の飾りが、あたかも真珠のような輝きを放っているために「真珠の女」と呼ばれている。また少女の無垢な肌が真珠のような光沢を放っているためとの説がある。

 古くから「コローのモナ・リザ」と呼ばれ、斜めに構えた姿態や右手を上にして組まれていることから、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を意識して描いたとされている。「モナ・リザ」の微笑みを浮かべる成熟した女性とは異なり、感情を露にしないが、その瞳には秘められた強い意思を感じさせ、少女らしい一途な思慕が見て取れる。全体の姿態とそこから醸し出される雰囲気は非常に気品があり、女性的な柔らかさと優美性に溢れている。コロー独特の色数を抑えた色調・色彩が調和している。

モルトフォンテーヌの想い出
1864年 65×89cm | 油彩・画布 |
ルーヴル美術館(パリ)

 1864年、薄靄の画家として知られるコローが描いた風景画のひとつで、「想い出」と名付けられサロンに出品された。コローの内面を抒情詩的に映したような風景画は、当時の大衆に人気があった。本作はその中でも特に抒情的な雰囲気が強く、サロン出展時には大好評を博し、皇帝ナポレオン3世により買い上げられた。モルトフォンテーヌはパリの北26kmのところにある樹木の多いところで、コローは時々訪れている。

 画面左には若い女と子供が、大地に咲く花や朽ちつつある痩せ衰えた木を摘んでいる。一方、画面右には一本の巨木が悠々と枝を広げている。色調を抑えた独特の色彩、幻想性と即興性が混在する大気の描写、銀灰色を帯びた鈍色に輝く光の表現、これらの効果が発揮され観る者に望郷心を抱かせる。また写真的な全体の構図は、当時、知識人たちの浸透し始めた日本趣味(ジャポニズム)からの影響を指摘する研究者もいる。

青い服の婦人(青衣の女)
1874年 | 油彩・画布 | 80×50.5cm |
ルーヴル美術館(パリ)

 こちらを振り返るモデルの顔の表清が心のかすかな摇れを見せ、イヴニング・ガウンの深いブル一の色調が、その心象風景を演出している。手には扇を持ち、ピアノに寄りかかる身のこなしは、優美で気品に満ちている。右下に制作年とサインがあるが、この絵はコロ—が亡くなる数か月前に仕あげられた。

画家のアトリエ
1865-68年 63X42cm
パリ ル一ヴル美術館

 この絵ではコローの作品を代表するかのように、壁に写生作品と思われる小さな絵が数点と肖像画が1点褂かり、画架には叙情的な風景画が置かれている。絵はパラディ•ポワソニエ一ル通りのコロ一のアトリエをほぼ忠実に再現したものであるが、同じアハートの階下には、彼の住まいもあった。

朝、ニンフの踊り
1850年 98 x 131 cm  
オルセー美術館  パリ

 芝居好きのコロ一が、このような幻想的な人物が登場する舞台のような絵を描きたかったのだろうが、コロ一の場合、古典の文学や美術にあまり造詣がなかったので、なかなか成功しなかった。特にこうした主題は古代の息吹きが色濃く残るイタリアでヒントが得られることが多いが、そんな明るい陽光の地方とは異なる、霧につつまれた北フランスで着想を得て夢幻的な世界を描いた。
 1850-51年のサロンに出品され、大好評を得た。この作品は政府によって買い上げられ、リュクサンブール美術館に収められた。これによりコロ一も有名になり、富と栄誉がもたらされた。以後、彼は注文に応えて同様な銀灰色のベールがかかつた叙情的風景画を次々に描た。

黄泉の国からエウリュディケを連れ出すオルフェウス
1861年 112.3 x 137.1 cm  
ヒューストン美術館  テキサス

マントの橋

1868

パリ、 ルーヴル美術館蔵

 パリの西60キロほどのノルマンディーの小都市マントの風景である。コローは1850年以降たびたび訪れている。手前の木々の視界を遮る強さと後景の橋の規則的な丸みが対照的で、おだやかなコローの画風にしては大胆な構図である。大胆ではある手前の緑と川面の青、そして木々の葉から空へと安心感に満ちた静かな風景である。光の具合もほどよく、釣り人の帽子だけが赤いのも控えめである。「自然は嫉妬深い恋人だ。彼女から離れるのは危険だ。なぜなら、次にはもう会ってくれなくなるからである」と、自然を見る目を養い続けたコローは、風景画を描くために生まれて来た画家である。コローほど豊かに表現し得た画家はいない。あの自信家のクールベにさえ、「フランスで真の画家と言われるのは僕です。・・・それから、あなたです。」と言わせている。

 コローは控えめな人柄だったので、天候や時間に即した外光表現の成果も、印象主義まであと一歩のところまで来ていながら、ことさら主張することなく引っ込めてしまうつつましさがあった。そのためこれほど美しく自然を表現できる画家なのに、コローというと、なんとなく「バルビゾン派かな?」程度の認識しか持たれていない。コローは経済的に恵まれ絵を無理に売らなくてもよかった。そのためコローの作品は清らかな緑と光に満ち、節度ある態度とともに人々に愛され続けているのだろう。

 コローの絵を見ていて、最初にわれわれが感じるのは静寂である。このマン卜の橋にしても、ある瞬間に自然から切り取られた一場面というよりも、ここから無言の鼓動が伝わってきて、なにか永遠なもの、 普遍的なものへ導かれる思しがする。

しかも、それらを伝えて画面に満ちているのは明るくやわらいだ光である。コローの描く風景にはこのような水辺が多いが、水分を含んだ空気のなかへ拡散される陽光は、当然微妙なやわらかさをもってくる。 何度もイタリアへ旅行して学んだ画家ではあるが、やはり北国の故国フランスがもつ気候や風景が彼の天分をみごとに誘発していったといえる。 構図のうえでも、複雑で老練なテクニックが見られる。橋や水面などの横の線に対して、木の幹や小枝は垂直に交わるである。また、岸の斜めの線や、正確な水平をやや避けた橋は絵の奥行きを感じさせる。 色彩については、空と水の色が微妙に描き分けられ、水面の輝きの光を溶けこませた水の質感を感じさせる。ポートの男の赤が絵全体にアクセントを添えていることはいうまでもない。

  写実的ともいえる写生の正しさ、印象はの先駆けともいえる光のとらえ方、そして新古典主義の教養に裏ずけされた厳密な構図といったものが集約された1点である。自らを何主義とも名乗ることのなかったコロ一であるが、ロマン主義、新古典主義から写実主義、印象派へとつづく時代の接点に、このような彼独自の世界を築いたのである。

ナポリ近郊の風景
(1841年)

 1841年、最初のイタリア旅行中のスケッチをもとに制作された作品で、同年のサロンに出品されて好評を博した。原題は、<イタリアの羊飼いのダンス>であった。

ローマ、ファルネーゼ庭園から眺めたコロセウム

 第I回イタリア旅行中の作品である。前景・中景・(コロセウム)・遠景を巧みに配して、見る者の視点を絵の後方へひきこんでゆく構成である。色調の変化なども敏感に取られてる。
 

ヴォルテラ、城壁

 

1834年

 ヴォルテラはフィレンツェの西南約50kmにあり、エトルリア時代の墳墓や遺跡が残る古都である。これは2度目のイタリア旅行での作品で、起伏の多い遠近の情景を、 古典主義の常套的手法ではなく、画家が設定した主体的な視点によって忠実に表現しようとしてる。

ロ一マ、コンスタンテイヌス帝のアーケード

から眺めたコロセウム

 

(1825年)

 長き100m、高さ80mといわれるたフォロ・ロマ一ノ最大の遺構コンスタンティヌス帝のアーケードから、古代ローマの代表的な遺構であるコロセウムを眺めたもの。この視点で描かれると、コロセウムの巨大さがあまり感じられない。日本の北斎などにはこういう思いきった構図があるが、当時のヨーロッパ会画ではめずらしい。第I回イタリア旅行での作品である。