ドーミエ

オノレ・ドーミエ(1808年〜1879年)
 ドーミエは19世紀のフランスの画家、風刺版画家として知られている。
マルセイユにガラス職人の子として生まれ、職人であった父は文学趣味の人で、詩人として身を立てるため、1814年、家族を置いてパリに赴いた。妻と子どもたちが父を追ってパリに出てきたのは1816年、画家ドーミエが8歳の時であった。一家は貧しく、ドーミエは少年時代から弁護士の使い走りや書店の店員として走り回っていた。14歳の時にはアレクサンドル・ルノワールという画家(印象派のルノワールとは無関係)に師事して、ティツィアーノやルーベンスの技法を学び、有名な私塾・アカデミー・シュイスにも通っている。また、1823年頃、ベリアールという職人から、その当時発明されたばかりだった最新技術である石版画(リトグラフ)の技法を学んでいる。

 19世紀前半のフランスはジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数創刊されたが、識字率が高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きかった。挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンという人物が版画家としてのドーミエの才能を見抜き、1831年に23歳のドーミエを採用した。当時のフランスは7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にあったが、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した。この頃の作品としては、版画「トランスノナン街、1834年4月15日」が知られている。
 ドーミエは生涯に4,000点近い版画を残したほか、数十点の彫刻、三百数十点の油絵を残している。彼の油絵は、生前にはほとんど公開されなかったが、当時のパリ市民の日常生活、当時の最新技術であった鉄道車両内の情景などを大胆な構図と筆使いで表現しており、印象派や表現主義の絵画を先取りしたとして高く評価されている。
 晩年、眼の病気を患い失明に至っている。1879年、パリ郊外ヴァルモンドワで没した。

三等客室(三等列車)

1860-63年 油彩・画布 65×90cm 

メトロポリタン美術館/ニューヨーク

  ロマン主義のような感情的表現でもなくクールベのような写実絵画でもない、自由な筆運び・表現技法によって描いていた、ドーミエの油彩画の代表作。都市に暮らす人々の孤独感や閉塞感、さらに内に溢れる逞しさが伝わってくる。

クリスパンとスカパン

1858-1860年

洗濯女

1863年

 

 洗濯業は力を込めて汚れを落としたり大量の服を一気に担がなければならない貧しい者達の行う重労働でした。ドーミエは都市の片隅で貧しいながらも逞しく生活している人々を愛情深い目線で捉えるている。白い背景の中で浮かび上がるように描かれた人物は、輪郭をぼかすことによって空間と調和させ静謐な時間を見事に絵画化しており、彫刻家ロダンは「ドーミエは素晴らしき彫刻家」と評し、ドラクロアも賛辞の言葉を残している。

ドン・キホーテ

1868年

「騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥った主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける」という同タイトルの小説を描いた作品です。理想や野望を持つも空回りするドン・キホーテに、ドーミエ自身の姿を重ねて描いたものと考えられている。

ドン・キホーテとサンチョ・パンサ

1868年

被告人、さあ権利があるのだから発言しなさい

1835年

 被告人は手足と口を押さえつけられ、彼の主張と思われる紙が床に散らばり、その後ろでは事の顛末を暗示するかのように斬首されそうな人物の姿も。自由を認めるという政策とは裏腹の実際の弾圧の様子を描いている。