奈良県立医大事件

奈良県立医大事件 昭和52年(1977年)
 昭和52年11月、奈良県立医科大(堀浩学長)の不正入試事件が発覚した。当時は私立医大の裏口入学が社会問題になっていたが、奈良県立医大の不正入試は 20年も昔の、昭和33年から43年にかけてのことだった。なぜこの時期に20年前の古傷が暴露されたのだろうか。
 奈良県立医大は、戦前は軍医を養成するための医学専門学校(医専)で、戦後に県立医大に昇格したが、医大の運営に金がかかり、奈良県からは金食い虫と批判されていた。奈良県立医大には学位審査権はなく、人材も施設も不備だらけだった。奈良県立医大はその解決策として裏口入学を考えたのである。
 裏口入学は、大学職員関係者、県知事、県幹部、議員、財界の子弟や縁故者で、11年間の入学者600人のうちの3分の1以上が寄付金による裏口入学者だった。大学後援会を窓口に「寄付金予約制度」がつくられ、寄付金は昭和33〜34年が1人50万円、35〜41年が100万円、42〜43年が150万円だった。裏口入学にはブローカーが暗躍し、多額の金銭を父兄から集め、その一部だけを大学に納めるブローカーもいた。
 11年間に集めた寄付金は2億5000万円で、研究費、施設費、学会出張費などに使われていた。大学施設費の54%を寄付金に頼っていて、これだけ堂々とした裏口入学の前例はない。県立医大といいながら寄付金立医大と言える状態だった。
 昭和52年11月9日の朝日新聞は、A君は受験者908人中521番の成績で入学、B君は518番で入学と報道した。入学定員は60人なので、上位400人以上が入学を辞退しないかぎり入学は不可能なはずである。このように裏口入学が暴露されたが、不正は約20年も昔のことである。入学者のほとんどは医師国家試験に合格して、県立医大の教員となっている者も約50人いることが判明した。
 奈良県立医大の教員は、当初は大阪大医学部の出身者がほとんどだった。やがて卒業生が大学に残るようになり、県立医の生え抜きが教授選などのポスト争いで力をつけてきた。教授、助教授、講師は合計240人で、その4割が同大卒業生で占めるようになった。この勢力をつぶすことが「20年遅れの正義の味方」の戦略だった。
 裏口入学、不正入試の公表は、同大生え抜き派(反学長派)と阪大派(学長派)との権力闘争の副産物だった。入試成績の暴露も、「出すぞ」「出してみろ」の言い合いになり、学長派の教授が教授会で資料をばらまき、学生にも資料が渡った。この対立で堀学長の不信任案が緊急動議として可決され、このことが混乱をいっそう深め、泥仕合となった。
 この騒動が新聞で報道されると、最も慌てたのは奈良県当局であった。奈良県は「大学の自治を尊重する」と表面上は冷静を装っていたが、裏口入学を斡旋していた奥田良三県知事ら幹部は動揺していた。奥田知事は堀学長に「資料公開は地方公務員法違反に相当する」と脅しをかけた。堀学長は「公表したのではなく、学内に配布しただけ」と強気の反論を述べ、辞任の意思がないことを示した。さらに「寄付金を取る裏口入学は、どこの公立医大でもやっている」と発言し、このことが新聞に載ると、大学の名誉を傷つける発言として抗議を受けた。
 学生自治会は「不正医師の真相を究明し、奈良県立医科大を改革せよ」とビラを張り、裏口入学で大学の教員になっている9人の氏名を公表した。学生自治会がこの情報をどのように得たのかは分からないが、「不正入学教官から医学を学ぶわけにはいかない」という素朴な学生心理を学長派にうまく利用されたのである。
 不正入学教官と公表された医師の実名を見ると、この事件が単純ではないことが分かる。9人のうち最初に公表された産婦人科医師は2番の成績で卒業し、将来は教授とされる優秀な医師だった。産婦人科は反学長派で、見せしめのための氏名公表とうわさされた。さらに裏口入学当時の学生自治会は日共系だったが、公表時は反日共系になっていた。そのため公表をめぐり自治会とアンチ自治会が対立、日共系の幹部だった者が不正入学者として名指しされた。氏名を公表された者は裏口入学の事実を否定し、氏名公表は阪大派の陰謀と非難した。
 不正入学者はすでに医師になり、あるいは研究者として大学病院の中核職員になっていた。不正入学者の名前が全員公表されれば、患者との信頼関係は崩れ、病院にいられなくなる。研究も挫折することになる。彼らの苦悩は強くなるばかりだった。
 この事件は裏口入学という不正、医師としての道義的責任が追及された。一方、入学試験の成績が悪くても、入学後に勉強すれば、医師として研究者としての資格は十分であることを裏付けていた。入試の公平性、医学教育のあり方、医師とは何か、このように不正入学者の公表だけでは終わらない医学教育の根本的な問題を投げかけた。