雪印乳業集団食中毒事件

雪印乳業集団食中毒事件 平成12年(2000年)

 平成12年6月26日の朝、雪印乳業の低脂肪乳を飲んだ大阪市天王寺区の子供たちが嘔吐や下痢などの症状を訴えた。翌27日になると雪印乳業大阪工場に食中毒を訴える苦情の電話が頻繁に入るようになり、低脂肪乳を飲んだ5歳の男児を診察した医師から食中毒の可能性があると大阪市に連絡が入った。

 大阪市は28日に雪印乳業大阪工場の立ち入り検査を行い、食中毒事件の拡大を防止するため、低脂肪乳商品の回収と社告掲載を出すように求めた。しかし雪印乳業大阪工場はそれに応じず、いたずらに状況を見るだけであった。雪印乳業大阪工場が社告掲載を躊躇(ちゅうちょ)したのは、連絡を受けた雪印本社が決断を遅らせたからである。この時点では、食中毒の被害者が13420人に達する戦後最大規模の事件に発展するとは予想していなかった。

 ちょうどその日、雪印乳業の株主総会が札幌市で行われていた。石川哲郎社長や会社の幹部たちは株主総会に追われ、石川社長に食中毒発生の連絡が入ったのは6月29日午前10時半のことであった。

 雪印乳業は大阪工場で作られた低脂肪乳の自主回収を指示、社告掲載を決定したが、その日の深夜までに患者は200人を超える勢いとなった。30日の全国紙におわびと回収の社告が掲載されたが、1日の差で被害者は大幅に増えてしまった。雪印乳業大阪工場は約29万8000本の牛乳を回収しようとしたが、それはあまりに遅い対応であった。追いすがる報道陣に「私は寝ていないんだ」と石川哲郎社長は言い放ち、マスコミのさらなる攻撃を受けることになる。

 大阪市の調べでは、被害を受けた者は乳児から90歳まで、26〜29日にかけて低脂肪乳を飲んだ者がほとんどで、低脂肪乳を飲んで3〜5時間後に嘔気や下痢などの症状をだした。被害者のほとんどは軽症であったが、大阪府と和歌山県では6人が入院、奈良県の女性(84)1人が死亡するという事態になった。

 雪印乳業大阪工場は「製造工程のバルブから黄色ブドウ球菌を検出した」と発表。工場の作業基準で定められた洗浄作業を怠ったため、バルブ内に付着した乳固形物に黄色ブドウ球菌が増殖し、黄色ブドウ球菌が産生した毒素によって食中毒が起きたと述べた。この発表によりこの食中毒事件は黄色ブドウ球菌が原因と断定された。

 黄色ブドウ球菌が増殖したバルブは、余った材料を再利用するための調整タンクと仮設パイプを連結させていた。つまり返品された牛乳を再利用していた実態が浮き彫りになったのである。雪印乳業というトップ企業が「返品された牛乳を日常的に再利用」していたのだった。

 大阪市は雪印乳業大阪工場を無期営業禁止処分として工場は閉鎖された。ずさんな管理体制が被害を引き起こしたとされたが、事件発生から1カ月半が過ぎた8月18日、雪印乳業食中毒事件は大阪工場の製造過程ではなく、北海道大樹町にある雪印乳業大樹工場で作られた脱脂粉乳が原因であることがわかった。

 つまり、雪印乳業大阪工場が集団食中毒事件の舞台になったが、その原因となった黄色ブドウ球菌の毒素「エンテロトキシンA型」は北海道の大樹工場で作られた脱脂粉乳の中に潜んでいたのだった。

 集団食中毒事件の半年前の平成12年3月31日、北海道の雪印乳業大樹工場で電気室へ氷柱(つらら)が落下して約3時間停電。復旧作業のためさらに1時間稼働が中断され、600リットルの牛乳が高温の状態で放置された。この間、冷却装置に送られるはずの牛乳内で黄色ブドウ球菌が繁殖し、黄色ブドウ球菌由来の「エンテロトキシンA型毒素」が産生されたのである。高温のままパイプ内に滞留していた牛乳は廃棄されず、貯乳タンクに貯乳され、脱脂粉乳の製造に使用された。工場側は殺菌装置にかけたことから安全と判断したが、殺菌装置は黄色ブドウ球菌を死滅させるが、エンテロトキシンは熱に強いため影響を受けないのである。大樹工場に残されていた脱脂粉乳の保存サンプルから1g当たり3.3〜20.0ngのエンテロトキシンAが検出された。

 事件発生時、大阪工場のずさんな衛生管理が指摘されたが、食中毒事件と大阪工場の衛生管理には因果関係はなく、北海道の大樹工場でエンテロトキシンを含んだ脱脂粉乳をそのまま出荷したことが原因であった。

 石川哲郎前社長(67)と相馬弘前専務(62)は回収の遅れが被害を拡大させたとして業務上過失傷害容疑で書類送検された。企業のトップが被害の公表の遅れで刑事責任を問われるのは初めてのケースだったが、大阪地検は被害拡大の予測は困難だったとして不起訴処分とした。大阪地検は汚染製品を製造した久保田修・元大樹工場長(51)ら3人を業務上過失致死傷罪などで起訴し、雪印乳業を食品衛生法違反罪で略式起訴とした。

 この事件とは別に、事件の過程で「牛乳と乳飲料の区別が分かりにくい」という消費者の苦情が相次いだ。「低脂肪乳とされている牛乳」は脱脂粉乳などを加えて乳脂肪分を少なくした加工乳で、「のむヨーグルト毎日骨太」「のむヨーグルトナチュレ」は単にカルシウムなどを添加した乳飲料であった。

 このようなことから表示規約の改正が行われた。新規約では牛乳とは生乳100%のものと定義され、濃厚牛乳などと表示していた加工乳、コーヒー、果汁、カルシウムなどを配合した「コーヒー牛乳」「いちご牛乳」「バナナ牛乳」「カルシウムの多い牛乳」などの乳飲料は「牛乳」の文字を使えないようになった。

 昭和32年から、雪印乳業は業界トップの売上高を守ってきたが、集団食中毒事件の直撃を受け3位に転落。明治乳業と森永乳業は2けたの増益となり、売上高、経常利益とも過去最高を記録した。また雪印乳業は医薬品事業を手掛け、20年間で総額600億円をつぎ込んでいたが、今回の事件で医薬品事業を第一製薬に譲渡することになった。また雪印本社はアイスホッケー部を廃部した。

 雪印乳業は日本の集団食中毒事件として過去最多の被害者を出したが、雪印乳業はこの事件以前にも脱脂粉乳による同様の食中毒事件を起こしていた。昭和30年3月、雪印乳業八雲工場(北海道)が製造した脱脂粉乳を給食で飲んだ東京都内の小学校9校の約2000人の児童らが、下痢や腹痛などの症状を訴えた事件がそれである。

 食品を扱う業者は、食中毒には慎重すぎるくらいの安全意識が必要である。今回の食中毒事件の舞台は大阪であったが、そのエンテロトキシンは北海道の大樹工場で産生されたもので、大樹工場長にエンテロトキシンの知識がなかったことが最大の原因であった。振り返れば危機感の希薄な、何ともお粗末な事件であった。