研修医過労死判決

研修医過労死判決 平成14年(2002年) 

 平成10年8月16日、大阪府守口市にある関西医科大付属病院の研修医・森大仁(ひろひと)さん(26)が急死した。森大仁さんは同年6月1日から耳鼻咽喉科の研修医として勤務していた。森大仁さんはマンションで1人暮らしをしていたが、病院から「森君が出勤していない」と連絡を受けた父親(57)がマンションに駆け付け、死亡しているのを発見。検視の結果、急性心筋梗塞による死亡とされた。

 森研修医は大学生のときは陸上部に所属し持病もなかったが、死亡する1週間前から「食事が取れない、時々胸が痛むが、診てもらう時間がない」と社会保険労務士である父親に話していた。このこともあり、父親が病院に息子の勤務実態を問い合わせると、「病院と研修医には雇用関係はなく、勤務時間は自主管理で、支払っているのは給与ではなく奨学金。病院に責任はない」と勤務実態を教えようとしなかった。

 父親は息子の同僚を訪ね、聞き取り調査を行った。その結果、森研修医は連日15時間の勤務で、休日は2カ月半の間に2日だけだった。毎朝7時30分頃に出勤して、入院患者への点滴や採血、回診など深夜まで働いていた。法定労働時間は週40時間であるが、森研修医は週114時間働き、給与は講義手当名目の月6万円で、健康保険にも入っていなかった。もちろん病院との雇用関係はないので、就業規則、雇用保険、年金もなかった。

 父親は「労働基準法に違反している」として労災の申請を出そうとしたが、同医大は「研修は教育だから、研修医は労働者ではない」と反論したのだった。父親は北大阪労働基準監督署に労災の申請書を提出したが、書類には事業主である大学の印鑑は押してもらえず、提出すべき出勤簿もなかった。

 森大仁さんの父親は「研修医が労働者」であることを認めさせるため3つの裁判で争った。まず平成11年5月、両親は関西医科大を相手取り、約1億7000万円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした。研修医の業務は責任が重く、従事している時間は異常に長いのだから「過重労働による過労死である」と主張したのだった。平成14年2月25日、大阪地裁は、「研修医は労働者であって、大学は健康管理に注意を払うべきなのに、安全配慮義務を怠っていた」として約1億3500万円の支払いを命じた。大学は控訴したが、平成16年7月15日、大阪高裁は「本人も健康管理の配慮を欠いていた」として賠償額を約8400万円に減額した。同医大側が上告しなかったため賠償命令が確定した。

 次ぎに平成14年5月10日、大阪高裁で「労働者として私学教職員共済に加入させるべき義務を怠った」として遺族年金分の損害賠償金約1000万円の支払いを求める判決があった。武田多喜子裁判長は、研修医を労働者と認定、約870万円の支払いを命じた1審の大阪地裁堺支部判決を支持し、同医大の控訴を棄却した。

 そして平成17年6月3日、最低賃金に満たない給料で働かされた、として3カ月間の勤務の未払い賃金約59万円の支払いを求めていた控訴審判決が最高裁で下った。最高裁の福田博裁判長は1審、2審の判決を支持し、同大に約42万円の支払いを命じた。

 このように「研修医は労働者である」ことが裁判で認められたのである。この判決が出るまでは、研修医は過酷な労働、わずかばかりの給料、不十分な指導の中で医療現場を任されていた。研修医の2年間は肉体的、精神的、経済的にも限界に近い生活で、寝る時間もないのに薄給を補うため民間病院で当直のアルバイトをする毎日だった。

 大学病院にとって研修医は安価な労働力と伝統的にとらえられていた。「医師は聖職であって、労働者ではない」という考えが根底にあったが、裁判で研修医は労働者であることが認定されたのである。

 平成16年度から新研修医制度が始まり、研修は義務化されたが、制度発足前に判決が出たことから、この判決は新研修医制度に大きな影響を与えた。労働基準法では労働は原則1日8時間、1週40時間以内となっている。研修医は法的にこの労働時間が守られることになり、給料もおおよそ30万円以上となり、研修医の労働環境は大きく改善した。

 しかし研修医を指導する勤務医は、労働基準法は事実上無視されたままである。労働基準法を守れば日本の医療は成り立たないことは分かっているが、医師の犠牲的精神に甘え、医師の待遇改善を怠ったことが、後に続く医師の過重労働、さらには医療崩壊を招いたといえる。