炭疽菌事件

炭疽菌事件 平成13年(2001年) 

 平成13年9月11日、米国で同時多発テロが起きた。4機の飛行機がアラブ系のグループに乗っ取られ、2機がニューヨーク世界貿易センターの超高層ツインタワー(110階)に突入、1機は米国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突、1機はホワイトハウスを狙ったらしいが、ペンシルバニア州のシャンクスヴィルに墜落した。世界貿易センタービルは崩壊し、消防士を含む約1700人が犠牲になった。

 この同時多発テロから数週間後の10月2日、米国フロリダ州の病院に63歳の男性が発熱と倦怠感を訴え入院した。感冒を思わせる頭痛や咳などの症状はなかったが、入院2日目に意識障害をきたし、医師は髄膜炎を疑い、髄液検査を行った。採取された髄液は白血球が増多、タンパクは高値、糖は低値で、この髄液所見は細菌性髄膜炎を示していた。髄液からグラム陽性の大型桿菌が検出され髄膜炎と診断されたが、グラム陽性桿菌による髄膜炎はまれで、また奇妙なことに髄液に少量の血液が混入していた。髄膜炎を引き起こすグラム陽性桿菌としてはリステリア菌が有名であるが、検出された菌はリステリア菌にしては形が大きすぎた。主治医が困惑しているうちに、血液培養から炭疽菌であることが判明、患者は入院から4日目に死亡した。

 炭疽菌の発生は極めてまれで、米国では25年ぶりの発生であった。男性は大衆紙サンなどの新聞社が入居するビルに勤務していて、男性が使っていたコンピュータのキーボードから炭疽菌が検出された。10月8日になり、米国のアシュクロフト司法長官は「男性と同じビルに勤務している73歳の男性の鼻腔から炭疽菌が検出され、抗生物質の治療をしている」と発表した。炭疽菌はヒトからヒトへ感染しないことから、同じ事務所で2人が感染したことは、意図的な感染を思わせた。

 炭疽菌は生物兵器として知られており、多くの人たちは細菌テロを心配し、抗生物質「シプロ」を買い求める騒動となった。ビルは閉鎖され、米連邦捜査局(FBI)が捜査に着手し、12日には3人目の患者が確認された。感染した3人は郵便物を扱っていたため、感染源として粉入りの郵便物の可能性が報道された。さらに10月から11月にかけ、米議会、メディア関係者に炭疽菌の付着した手紙が次々と送り付けられ、19人が感染し、郵便局員など5人が死亡した。封書の文面はいずれも「アメリカに死を」「イスラエルに死を」「アラーは偉大なり」と書かれていた。そのため多くの人々は「イスラムの過激派がやった」と思い込み、米国内のみならず、世界各国でも「白い粉」パニックを引き起こした。人々は炭疽菌の特効薬シプロキサシンを買い求め、防毒マスクも売れたほどであった。日本でも郵便物の配達や開封の際には厳重に注意するように呼び掛けられた。

 炭疽菌(Bacillus anthracis)は炭疽(炭疽症)を引き起こす細菌で、細菌学者コッホが人類史上初めて病原細菌として発見した菌である。またパスツールが最初にワクチンを開発した菌でもあった。このように炭疽菌は歴史的に有名な菌であるが、それは当時のヨーロッパで、炭疽菌が羊や牛の間で流行していたため研究対象になっていたからであって、人への感染はまれであった。

 しかし第2次世界大戦以降、炭疽菌は生物兵器として各国で研究されていた。炭疽菌は培養が簡単で安価なこと、短期間で致命的感染症を起こすこと、散布しやすくヒトからヒトに感染しないことから、細菌兵器として研究されていた。昭和54年に旧ソ連の軍事施設から炭疽菌が漏れ、68人が死亡する事故があった。100kgの炭疽菌を大都市上空からばらまけば、数百万人の死者が出ると推計されていた。

 FBIは科学者や生物兵器専門家への大規模な捜査を展開したが、12月になり、使用された炭疽菌が1g中1兆個という高濃度の胞子であることが判明。旧ソ連で炭疽菌開発に携わっていた専門家ケン・アリベクが「米軍以外に、このように高純度の炭疽菌はつくれない」と発言。犯行は、米軍の炭疽菌を誰かが盗んだのか、米軍の専門家が炭疽菌のつくり方を教えたのか、米軍の組織的犯罪の可能性が高いことになった。米国は生物兵器禁止条約を世界に呼び掛け、米国の炭疽菌の研究は表面上禁止されていた。しかし実際には、クリントン大統領に報告もしないで、米国防総省は秘密裏に炭疽菌を研究していた。

 事件から7年後の平成20年3月28日、米国のニュース専門テレビ「フォックス・ニュース」が、FBIが容疑者を絞り込んだと報道した。封書の筆跡から犯人が浮上したのであった。しかし平成20年7月29日、容疑者とされていたブルース・アイビンス(62)が薬物(アスピリン)の大量摂取で死亡した。アイビンスは生物化学兵器の研究施設(メリーランド州)の関係者で、盗んだ炭疽菌を封筒に入れて送付したとされている。アイビンスが犯行に使われたのと同じ特殊な炭疽菌を保管していたことから、捜査当局はアイビンスの単独犯行と断定した。アイビンスは炭疽菌のワクチン研究者で、FBIの捜査にも協力しており、ワクチンの効果を試すことが動機だったとされている。アイビンスが本当に犯人なのか、疑惑を苦にしての自殺なのか、真相は不明のまま捜査は終結となった。