慈恵医大青戸病院事件

慈恵医大青戸病院事件 平成14年(2002年)

 千葉県松戸市に住むAさん(男性60)は、4年前から前立腺を患い東京慈恵会医大付属青戸病院(東京都葛飾区)に通院していた。平成14年9月に前立腺がんが見つかり、治療法として放射線療法、内分泌療法、手術療法があることを主治医から説明を受け、Aさんは主治医が勧める腹腔鏡下前立腺摘出術を選んだ。腹腔鏡下前立腺摘出術は開腹手術とは異なり、お腹に数カ所の穴を開け、そこから内視鏡を入れ、テレビモニターを見ながら器具を操作して患部を摘出する手術であった。切らずに治す腹腔鏡手術は、胆嚢摘出ではすでに一般的になっていたが、前立腺摘出術は先進医療のひとつで熟練した技術が必要だった。

 平成14年11月5日、Aさんは入院。Aさんと家族は主治医から腹腔鏡による手術の説明を受けた。困難な手術との説明はなく、手術の痕が小さく回復が早いなどの利点が強調され、腹腔鏡手術がうまくいかない場合は、開腹手術に切り替えると説明を受けた。

 11月8日の午前9時41分、腹腔鏡による前立腺がん摘出が始まった。医師3人がAさんの腹部に1センチ大の穴を5カ所開け、内視鏡と鉗子を挿入、モニターを見ながら手術が進められた。しかし手術は困難を伴い、前立腺表面の毛細血管からの止血に時間がかかった。午後7時15分、前立腺は摘出したが、尿道の縫合に手間取り、午後9時に開腹手術に切り替えられた。午後10時35分に手術は終了したが、出血による貧血が進行し、血圧が急速に低下した。麻酔科医が心臓マッサージを行い、輸血によってAさんの血圧は回復したが、Aさんの意識は戻らず、脳死状態のまま約1カ月後の12月8日に死亡した。Aさんが亡くなったことは病院から警察に連絡され、Aさんは都内の大学病院で司法解剖となった。Aさんの死亡について、病院側は開腹手術への変更の遅れと輸血の遅れを家族に述べたが、詳細な説明を避けていた。死因に不信を抱いていた家族は、警察の勧めもあって被害届を出した。

 平成15年9月25日、警視庁は執刀した泌尿器科医師・斑目旬(まだらめじゅん)(38)、長谷川太郎(34)、前田重孝(32)の3人を業務上過失致死容疑で逮捕。手術の許可を出した同大助教授大西哲郎(52)と2人の麻酔科医を書類送検とした。この事件の詳細が報道されると、日本中に大きな衝撃が走った。それは3人の医師はそれまで腹腔鏡下前立腺摘出術の経験がなく、指導医が不在の状態で、業者から器具の使用方法を聞き、マニュアルを見ながら手術を行っていたことが明らかになったからである。このことは術前に本人や家族には告げられず、大学の倫理委員会の承認なしに手術が行われていた。マスコミは医師が未熟だったため、開腹手術へのタイミングが遅れ、患者が失血死したと報道した。

 平成16年3月18日、厚生労働省の医道審議会医道分科会は逮捕された医師3人について、刑事事件の有罪判決が確定する前に、斑目旬、長谷川太郎に医業停止2年、診療部長だった大西哲郎には、未熟な医師による手術を認めたとして医業停止3カ月の行政処分を下した。医師の行政処分は、裁判の結果を踏まえて行われるのが通例であったが、今回は極めて異例のことであった。

 公判では、斑目旬、長谷川太郎は起訴事実を認めたが、前田重孝は無罪を主張した。弁護側は、「輸血が間に合えば死亡しなかった。追加の輸血の注文を怠った麻酔科医の過失が直接の死因」と主張した。患者の血液型はAB型であったが、青戸病院にはAB型の輸血用赤血球がなく、日赤に注文してから手術室に届くまで時間がかかっていた。緊急時にはAB型の代わりにO型の赤血球が輸血可能だったがそれをしていなかった。このことから弁護側の主張には、それなりの説得力があった。

 しかし手術で前田重孝が前立腺を摘出したとき、「赤ちゃんが産まれました。元気な男の子です」と言ったテープの声がテレビで流され、極めて印象を悪くした。

 平成18年6月15日、東京地裁の栃木力裁判長は、「医師の基本を忘れた無謀な行為」と述べ、長谷川太郎に禁固2年6月(執行猶予5年)、斑目旬と前田重孝に禁固2年(執行猶予4年)を言い渡した。患者の利益を考えず、経験を積みたいとする自己中心的な考えで手術を行い、止血処理を怠り、開腹手術への変更が遅れ、患者を死亡させたとした。輸血の遅れについては、麻酔科医の過失が3人の罪を否定することにはならないとした。

 これまで医療事故が社会問題となり、その根底にある医師の独善性や倫理感の欠如は大部改善されてきた。しかし青戸事件は医療従事者の努力を無にするような医療事故であった。患者や家族に十分な説明が行われていれば、経験ある医師が立ち会っていれば、輸血の不手際がなければ、この事件は起きなかった。糾弾されるのは当然であるが、まことに残念なことであった。