川崎安楽死事件

川崎安楽死事件 平成14年(2002年) 

 平成14年4月19日、川崎市川崎区桜本の川崎協同病院で、3年半前に内科の須田セツ子医師が男性患者の気管内チューブを外し、筋弛緩剤を投与して死亡させていたことが公表された。死亡したのは川崎公害病の認定を受けていた58歳の男性患者で、平成10年11月2日、友人の車で帰宅途中に気管支喘息の発作を起こして川崎協同病院に入院。入院時は心肺停止の状態で、蘇生によっても意識は戻らず、人工呼吸器管理になっていた。11月8日、須田セツ子医師は家族に脳死状態と説明。11月11日、家族は覚悟を決めている、と須田医師は判断して気管内チューブを抜いたが、不安定な呼吸となったため再び挿管。11月14日、須田医師は家族に「チューブを抜くので親族に連絡して来てほしい」と言い、11月16日の午後5時30分に気管内チューブを抜いた。しかし患者は苦しそうな様子を見せたため、鎮静剤(セルシン)を投与、さらに筋弛緩剤(ミオブロック)を注射し、その数分後に患者は死亡した。事件から4日後、看護師から相談を受けた他の医師が当時の院長に報告したが、当時の院長はそのことを公表しない方針を取った。

 3年後の平成13年10月になって、病院職員から院長に指摘があって調査が開始され、病院は須田医師に「倫理的にも法的にも重大な問題である」と辞職を勧告。平成14年2月に須田医師は病院を依願退職することになった。病院は殺人事件の可能性があるとして、須田医師に警察に出頭するように勧めたが応じず、須田医師は横浜市港北区で開業することになった。

 平成14年4月19日、病院は記者会見を開き安楽死の内部調査結果を公表した。病院は「患者は意識不明の状態であったが、自発呼吸があり安定していた」と説明したが、須田医師は「患者の妻からチューブを抜いてほしいと頼まれた」と回答した。家族の長男は「須田医師にチューブを抜くと言われたが、チューブを外すとどうなるかの説明はなかった。チューブを抜くとは依頼していない」と述べた。当時、病室にいた看護師は、「本当に抜くのですか」と質問したが、須田医師はそれには答えず、チューブを抜いた途端に患者が苦しみだし、この直後に鎮静剤と筋弛緩剤が投与されたと証言した。医師の常識からすれば、筋弛緩剤を投与すれば呼吸筋が麻痺するので死は確実であった。

 事件の発生から発覚まで約3年半がたっており、神奈川県警は当時のカルテや看護記録を分析、看護師や患者家族から事情を聴取した。その結果「気管内チューブを抜けば危険な状態に陥るのは明らかで、抜管は殺害行為の着手に相当する。抜管から約1時間後に投与した筋弛緩剤で患者は死亡した」として、12月4日、神奈川県警は筋弛緩剤投与による殺人容疑で須田セツ子医師(48)を逮捕した。

 横浜地裁の公判では、須田セツ子医師は気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与した事実を認めたが、それは家族の要請によるもので、自然な死を迎えさせるための治療行為の中断であると主張。筋弛緩剤は薄めて点滴で投与したので、死亡との因果関係はないとした。

 平成17年3月25日、横浜地裁の広瀬健二裁判長は「医師として許される一線を逸脱したが、ある程度の社会的制裁を受けているとして、懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡した。平成19年2月25日、東京高裁で控訴審判決があり、須田セツ子医師に懲役1年6月、執行猶予3年が言い渡された。須田セツ子医師は判決を不服として違法性はないと上告したが、最高裁は上告を棄却し刑が確定した。最高裁は「医師は脳波などの検査をしておらず、余命の判断を下せる状況になく、チューブを抜いた行為は患者の意思に基づくとは言えず、法律上許される治療中止には相当しない」とした。

 この川崎安楽死事件は、延命治療中止が医師の独断的行為として罰せられたが、裁判では尊厳死や安楽死は医療チームで判断すべきと提示した。ほぼ同じ時期に、富山県の射水市民病院や北海道立羽幌病院などで人工呼吸器を外された患者が死亡した事件が明らかになったが、刑事事件となったのはこの事件だけであった。それにしても事件の発生から発覚までなぜ3年半もがかかったのか。組織ぐるみの隠蔽(いんぺい)があったのは確かであるが、3年半後に隠蔽(いんぺい)のふたが開いたのは、どのような理由だったのだろうか。