喘息薬殺人事件

喘息薬殺人事件 平成12年(2000年)

 平成12年7月16日、奈良市に住む看護師・坂中由紀子(43)が長女Aへの薬殺容疑で奈良県警に逮捕された。事件のきっかけは同年3月8日の夜のことであった。

 高校1年生の坂中由紀子の長女A(17)が入浴中に動悸を訴え、天理よろづ相談所病院を受診。症状は軽度であったが経過を見るため入院となった。しかし入院翌日、長女Aは急性肺水腫を起こし、38℃の高熱、意識障害をきたすほどの重篤な状態になった。病気の原因は不明であったが、自然に改善したため3月22日に退院となった。

 同年5月8日、長女Aは動悸と手の震えを訴え2回目の入院となり、入院4日目の11日午前7時頃、突然、前回同様に肺水腫を起こした。

 肺水腫とは肺に水がたまる重篤な状態であるが、前回同様、次第に症状は改善し5月30日退院となった。さらに6月16日、長女Aは学校で手足の震えと動悸を訴え3回目の入院となった。長女Aが入院している間、母親の坂中由紀子はいつも付き添い、優しい母親を演じていた。長女の看病をしながらお茶やスポーツ飲料などの差し入れをしていた。

 主治医の新宅教顕医師は、長女Aの動悸、手の震え、血液中のカリウム低値などの所見が医学的に説明できず、何らかの毒物ではないかと考えた。そのため食事や飲み物などに異常がないかと質問すると、長女Aは「飲み物の味がおかしい」と答えたのだった。新宅医師は長女Aが飲んでいたお茶などを冷凍保存、奥村秀弘院長に鑑定の必要性を訴えた。

 3度目の入院時より、病院は長女Aの母親の行動を監視、母親と長女が2人だけにならないように看護師をガードにつけた。6月27日、院長は弁護士と相談してお茶などを奈良県警に提出した。そして奈良県警科学捜査研究所の鑑定で、気管支喘息の薬剤・硫酸サルブタモールがお茶と尿から検出されたのである。奈良県警は長女Aの安全を最優先とし、長女Aの退院日に母親を逮捕した。

 硫酸サルブタモールの商品名はベネトリンで、喘息の治療に用いられる気管支拡張薬である。ベネトリンを多量に使用すれば、心機能が増強し、呼吸困難、筋肉の痙攣、不整脈などを引き起こし心停止に至る副作用があった。坂中由紀子の自宅と乗用車から硫酸サルブタモールが見つかり、この硫酸サルブタモールが入ったお茶を飲ませ、わが子を殺害しようとしたことが確実となった。

 異変を察知した医師の機転により長女Aの命は救われたが、坂中由紀子は警察の取り調べに対し、殺意を認めたが動機や方法については語らなかった。長女Aには約3000万円の保険金が掛けられていた。

 この事件はさらに別の殺害事件を発覚させることになった。事件の3年前に小児喘息を病んでいた二女(9)が急性肺水腫で死亡、30万円の保険金が坂中由紀子に支払われていた。さらにその7カ月後、長男(15)も急性肺水腫で死亡していた。長男には2000万円の生命保険金が掛けられていた。保険会社は契約から1年以内の急死なので、保険金の支払いを当初は見合わせていたが、拒否する理由がないことから保険金が支払われていた。さらに同居していた祖父母も急性肺水腫で緊急入院していて、保存されていた尿から硫酸サルブタモールが検出された。

 坂中由紀子は昭和56年に結婚したが、平成5年に離婚し、両親と長女との4人暮らしだった。平成7年から坂中由紀子は、京都府木津町の公立山城病院に勤務し、公立山城病院は硫酸サルブタモールを常備していた。勤務態度はまじめで欠勤などはほとんどなかったが、平成10年6月頃から、うつ状態で入退院を繰り返していた。同僚たちは子供を相次いで亡くしたため、精神的に不安定になったと思っていた。坂中由紀子は看護師という立場から薬品への知識があった。

 この事件は証拠の残りにくい薬剤を用いた生命保険金殺人だった。何らかの動機がなければ実子を殺すことはないが、公判で坂中由紀子は「長女さえいなければ、家事の負担が減り、テレクラで知り合った男性と一緒になれた」と動機を述べた。

 平成14年3月14日、奈良地裁は殺人未遂罪に問われた坂中由紀子に懲役3年(求刑懲役6年)を言い渡した。東尾龍一裁判長は「犯行は巧妙かつ計画的であるが、長女が処罰を望んでいない」として刑を軽くしたのだった。長女は判決に先立ち「判決がどうなろうと母をずっと待ちます」と述べ、この長女の健気(けなげ)な言葉が坂中由紀子の減刑になった。

 保険金目的で母親が実子を殺害する事件は、平成11年8月に発覚した佐賀県の看護助手・山口礼子(44)の前例があった。母親の山口礼子が愛人の古美術商・外尾計夫(55)と共謀し、平成10年、高校1年生の次男(16)に睡眠薬を飲ませ、岸壁から海に投げ落として水死させ逮捕されている。次男には3500万円の保険金が掛けられていた。さらにその6年前の平成4年に、夫に睡眠薬を混ぜた夕食で眠らせ、佐賀県の海岸の岸壁から落として9900万円の死亡保険金をだまし取っていた。母親が愛人におぼれ、保険金目的のため夫と16歳の息子を殺したのである。週刊誌は母親を「鬼母」「鬼畜母」と書いて報道し、雑誌「FOCUS」(フォーカス)が礼子のヌード写真を掲載した。それは夫を殺害する前の愛人に撮らせた写真であった。

 このようなことは、マスコミによる私的制裁、報道倫理にかかわると思われるが、それを指摘する声はなかった。長崎地裁の山本恵三裁判長は「保険金をだまし取る目的で綿密に計画されており、犯行の残忍さ、冷酷さは言うべき言葉もない」と述べ、さらに「母子の情愛という人類普遍の、かつ最も根源的な倫理すら脅かす犯行」と両被告に求刑通り死刑を言い渡した。

 薬剤による殺害の多くは、これまで劇薬が用いられてきたが、奈良県の事件は気管支喘息薬、佐賀県の事件は睡眠薬を用いていて、病院勤務の看護師ならば簡単に手に入る一般薬による犯行であった。人の生命を救う看護師が起こした事件であるが、看護師であるが故にこのような巧妙な手口が可能だった。