エコノミークラス症候群

 平成12年10月、28歳の英国女性がシドニーオリンピックの観戦を終え帰国後に肺梗塞で急死する事件が起きた。この女性はシドニーから約20時間の飛行機の旅を終え、ヒースロー空港に到着した直後に倒れたのだった。この事件はマスコミが「エコノミークラス症候群」という名称で取り上げたため注目を浴びることになった。女性が急死したのは、同じ姿勢のまま狭い飛行機の中で長時間座っていたからであった。長時間同じ姿勢で座っていると下肢の血流が悪くなり、下肢の静脈に血液の固まり(血栓)ができ、血栓が心臓から肺に流れ、肺動脈を詰まらせるのであった。
 ヒースロー空港のアシュフォード緊急病院は、英国の空港利用客のうち、平成11年の1年間で推定2000人以上がエコノミークラス症候群で死亡した疑いがあると発表。さらに空港や機内での突然死の18%が同疾患によると発表したため騒動となった。
 エコノミークラス症候群の正式病名は肺動脈血栓塞栓症で、肺動脈血栓塞栓症は決して珍しい疾患ではない。長時間下肢を動かさないことが原因で、長時間座ったままのデスクワーク、長距離のドライブ、長時間の観劇でも起こり得る。また病院で手術を受けた患者を長時間安静にさせた場合にも発症することから、術後の患者、出産後の妊婦などは痛みがあっても早期に身体を動かすように病院は指導している。
 マスコミがエコノミークラス症候群と騒いだことから、あたかも飛行機のエコノミークラスがこの疾患の原因と誤解を招くことになり、訴訟社会の欧米では航空会社を訴える動きが見られた。そのため航空業界は「エコノミークラス症候群は座席のクラスとは関係がない」と繰り返し述べ、エコノミークラスのイメージ改善を重ねることになった。
 本疾患は飛行機で起こしやすいが、その発症は長時間の飛行に限られている。つまり国内線では発症せず、飛行時間が6時間以上の国際線で発症の可能性が出てくる。もちろんファーストクラスでも発症するが、エコノミークラスの座席は狭く、足元に荷物を置いて脚を動かさない場合に血栓ができやすいのである。平成14年3月29日、サッカー日本代表の高原直泰選手(22)がポーランド遠征からの帰国時に同疾患で入院。もちろん高原直泰選手はビジネスクラスで、このようにビジネスクラスでも発症するのである。
 飛行機の機内は予想以上に乾燥しているため、本疾患の予防は多めに水分を摂取し、飲酒は脱水を起こしやすいので控え、ゆったりとした服装で足を組まず、定期的に下肢の運動をすることである。窓際の席では通路側の人に遠慮しがちであるが、2時間に1度は機内を歩くことが予防になる。
 深部静脈血栓症による肺塞栓は、日本ではなじみが薄かったが、欧米では比較的多い疾患で、元気だった人が突然死することから恐れられていた。リスクファクターとしては肥満、喫煙、経口避妊薬の服用、深部静脈血栓症の既往、悪性疾患などが挙げられ、米国のニクソン大統領も罹患していた。成田空港の新東京国際航空クリニックの調査では、成田空港では過去8年間で25人がエコノミークラス症候群で死亡したとしている。また平成16年の新潟県中越地震で車内生活を余儀なくされた被災者の中で、エコノミークラス症候群で突然死が相次いだことが記憶されている。
 肺動脈血栓塞栓症はいかに早く診断し、治療するかである。下肢全体にむくみと痛みがある場合、さらに胸痛、呼吸苦があれば本疾患の可能性が高くなる。肺の血流シンチが確定診断になるが、疑いがあれば検査結果を待たずに血栓溶解療法を行うべきである。エコノミークラス症候群とマスコミが騒ぐまでは、肺動脈血栓塞栓症はなじみの薄い疾患であったが、現在では胸痛、呼吸苦があれば鑑別すべき疾患として常識になっている。特に寝たきりの老人では本疾患を常に念頭に置くべきである。