薬害エイズ裁判

薬害エイズ裁判 平成8年(1996年)

 一般にエイズは性行為によって感染するが、日本は欧米とは違い、汚染された血液製剤によって発症した血友病患者が圧倒的に多かった。昭和57年から61年にかけ、血友病の治療に使用された非加熱製剤が、エイズウイルス(HIV)に汚染されていたのである。日本の血友病患者約5000人のうち1868人が米国から輸入された非加熱製剤によってエイズに感染(平成8年現在)、500人以上が死亡する戦後最大の薬害が発生した。

 薬害エイズで問題になったのは、厚生省、製薬会社、医師の3者が、汚染された非加熱製剤がエイズの原因と知りながら回避措置を取らず、無責任な状態で感染を広めたことである。そのため、官・業・医の癒着による薬害の責任が問われることになった。

 官として前厚生省保健医療局長・松村明仁、企業としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の歴代3社長、医師として前帝京大副学長で元厚生省エイズ研究班長・安部英(たかし)が逮捕され起訴された。

 昭和58年頃からエイズが米国で猛威を振るい、同年6月に厚生省はエイズ研究班を設置し、血友病の専門家である安部英が班長になった。6月18日の読売新聞で、安部は「輸入に頼っている血液製剤では、感染する危険がある」「輸入血液を60度で10時間加熱(加熱血液製剤)し、ウイルスを不活性化する方法を採りたい」と述べている。つまり当初、安部は感染防止のため、加熱製剤使用を主張していたのであるが、しかしなぜか態度を変え、非加熱製剤の使用継続を決めたのだった。

 昭和59年当時、帝京大医学部長であった安部は、血友病患者48人に非加熱製剤を投与していた。そしてその時点で、患者の半数近くがエイズに感染していることを米国に依頼した検査結果から知っていた。安部は非加熱製剤の危険性を十分に確認していながら、安全性の高い国内血液製剤(クリオ:10人程度の国内供血で製造)に換えず、昭和60年になっても非加熱製剤を指示していた。厚生省がウイルスを不活性化した加熱血液製剤を承認したのは、昭和60年7月になってからである。

 平成8年8月29日、東京地検は安部英(80)を業務上過失致死罪容疑で逮捕。ただし安部の逮捕は、エイズウイルスに汚染された非加熱製剤を流通させたことではなく、エイズで死亡した血友病患者の遺族に告訴されたからである。東京地検は患者の冷凍保存血液から感染時期を特定し、非加熱製剤とエイズ感染との因果関係を証明しての逮捕となった。

 薬害事件で医師が逮捕されたのは初めてのことである。安部は逮捕の際、代替製剤であるクリオでは供給量が足りず、また粘性が高いため注射器が詰まる可能性があるため、非加熱製剤を用いる以外に方法がなかったと主張した。安部は「良心に恥じることはない」と述べ、エイズ感染者に謝罪の言葉はなかった。

 安部英は厚生省のエイズ研究班長として非加熱製剤の継続を指示し、製薬会社から自らの財団に4000万円以上の寄付金を集めていた。さらにエイズ感染を患者に告知しなかったため、家族内感染の悲劇を生じさせた。平成13年3月28日、東京地裁の永井敏雄裁判長は安部英に無罪判決を下した。「エイズによる血友病患者の死亡は予見可能であったが、予見の程度は低い」というのが判決理由であった。また当時は、多くの血友病専門医が非加熱製剤を投与しており、安部だけに過失を問うことはできないとした。

 この判決は多くの人々を驚かせた。安部英は血友病の専門家として薬害エイズの危険性を知りながら、非加熱製剤投与を続けていたのである。この判決に、多くの国民は納得できなかった。エイズ研究班班長としての責任を果たしていなかったからである。安部英は東京地裁で無罪となったが、検察は控訴し東京高裁で継続審議となった。しかしその後、安部英は認知症を患い、平成16年から公判が停止し、平成17年4月25日に死去したため、結論をみないまま公訴棄却となった。

 平成8年9月19日、ミドリ十字の歴代3人の社長が、業務上過失致死の疑いで大阪地検に逮捕された。逮捕されたのは、非加熱製剤によりエイズ感染が広がった当時のミドリ十字の社長だった松下廉蔵元社長(75)、副社長兼研究本部長だった須山忠和前社長(68)、製造本部長だった川野武彦社長(66)である。逮捕の理由は、昭和61年4月に行われた食道静脈瘤の手術で、非加熱製剤が用いられ、エイズに感染して死亡させたとする業務上過失致死の疑いだった。昭和60年には安全な加熱製剤が承認されていたのに、この承認後も非加熱製剤を販売したことが感染を招いたとした。

 ミドリ十字は米国の子会社から「非加熱製剤の危険性」を警告されていたが、それを無視していた。さらに子会社は「加熱製剤の供給確保」をミドリ十字に報告したが無視されていた。それだけではなく、ミドリ十字は「非加熱製剤を国内の血液による安全な製剤」とウソの宣伝で継続販売していた。

 ミドリ十字は、「厚生省が回収命令を出さなかった」と弁解したが、加熱製剤が認可されてから非加熱製剤の回収終了まで2年9カ月かかっている。つまり加熱製剤の安定供給ができたのに、営利のため自社の非加熱製剤を販売し、回収しなかったのである。安全よりも利益優先のミドリ十字の経営体質が示されていた。ミドリ十字は「厚生省業務局分室」といわれるほど天下りが多く、厚生省との癒着が強かった。

 平成12年2月24日、大阪地裁は松下廉蔵に禁固2年、須山忠和に禁固1年6月、川野武彦に禁固1年4月の実刑を言い渡した。この事件は最高裁まで争われたが、平成17年6月27日に、松下禁固1年6月、須山禁固1年2月の実刑が確定している(川野は死去のため公訴棄却)。

 薬害エイズ事件の最大の原因は、厚生省が非加熱製剤の回収命令を出さなかったことである。そのため厚生省の責任者だった当時の薬務局生物製剤課長・松村明仁が「不作意の過失責任」に問われた。日本の加熱製剤の承認が米国より2年4カ月も遅れたのは、厚生省の松村廉蔵と厚生省エイズ研究班長・安部英が、ミドリ十字のために故意に承認時期を遅らせた疑惑があった。ミドリ十字は外資系製薬会社に比べ加熱製剤の開発が遅れていたからである。

 平成8年10月4日、東京地検は松村明仁(55)を業務上過失致死の疑いで逮捕。東京地検は、「国民の生命や身体の安全を守るべき職務上の義務を負っているのに、有効な対策を講じなかったことは不作為に当たる」と指摘。不作意の過失責任を刑事責任で問われることになった。

 平成13年9月28日、東京地裁は松村明仁に禁固1年、執行猶予2年の有罪判決を下した。この判決は、「厚労省は組織として判断を下すのであって、官僚個人の責任は問わない」という霞が関の常識を覆すものであった。それだけ松村の罪が重かったのである。平成20年3月最高裁は上告を棄却し、松村明仁の有罪が確定した。

 薬害史上、製薬会社のトップ、医師、官僚が刑事責任を問われるのは初めてのことだった。多くの国民は薬害エイズ裁判に注目し、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させた罪が裁かれることを求めていた。

 しかし薬害エイズ裁判で誤解されやすいのは、この裁判の争点は「非加熱製剤を流通させたこと」ではなく、「非加熱製剤を投与して、特定の患者を死亡させた」ことである。つまり特定の患者の死亡に、被告がどの程度関与していたかが争われたのがエイズ裁判であった。なお製薬会社と国への民事裁判については、平成8年2月に菅直人厚生相が謝罪し、翌3月に和解が成立している。