都立広尾病院医療事故

都立広尾病院医療事故 平成11年(1999年)

 平成11年2月11日、東京都立広尾病院(東京都渋谷区恵比寿)でリウマチの手術を受けた女性患者に間違って消毒剤が点滴され死亡する医療事故が起きた。死亡したのは千葉県浦安市の主婦・永井悦子さん(58)で、関節リウマチを患っていた悦子さんは左手中指の関節の手術を前日に受け、その日は感染予防の抗生剤と、血液凝固を防止するためのヘパリン生理食塩水の点滴を受けるはずだった。しかし永井悦子さんに点滴されたのは別の患者に使用するはずだった消毒液ヒビテングルコネートだった。ヒビテングルコネートは外傷などで汚染された皮膚などを消毒するための薬剤で、点滴ではなく消毒剤であった。永井悦子さんはヒビテングルコネートの点滴を受けた直後の午前9時頃、胸が苦しいと訴え30分後に意識が低下し、救命処置がとられたが10時44分に急死した。もちろん消毒剤の点滴による死亡であった。

 広尾病院によると、看護師・亀井晴子(29)がナースセンターの処置室で、悦子さんの点滴の準備と、別の患者に使う消毒液(ヒビテングルコネート)を同じタイプの注射器で吸い上げていた。悦子さんに投与される予定のヘパリン生理食塩水液が入った注射器は夜勤の看護師がすでに6本つくっていて、それぞれの注射器には「ヘパ生」(ヘパリン生理食塩水)とフェルトペンで書かれ、冷蔵庫に入れてあった。点滴の準備していた亀井看護師は、冷蔵庫からこのうちの1本を取り出し処置台の上に置いて、次ぎに消毒液を注射器に吸い上げる作業を行った。

 ヘパ生は静脈から点滴するもので、消毒液は外用として皮膚の創部を洗浄するものである。この無色透明の2つの薬剤が同じ10mlの注射器に詰められ、同じテーブルに並んでいた。2つの薬剤の外観はまったく同じで、取り違えが起きても不思議ではなかった。亀井看護師は消毒液を入れた注射器に「ヒビテン」と書いた紙を貼り、亀井看護師が病室に注射器を持ってゆき、別の看護師・丹内貴子(25)が注射を行った。注射した丹内看護師は注射器に「ヘパ生」の文字を確認したと証言している。

 しかし患者急変、点滴を準備した亀井看護師は驚き、処置室に残されていた1本の注射器を見たところ「ヘパ生」と書いてあり、さらに同じ注射器に「ヒビテン」と書いた紙が貼ってあった。亀井看護師は間違いがあってはいけないと動転し、この注射器をすぐにごみ箱に捨てたが、病院が捨てられた注射器の成分を調べたところヘパリンが検出された。つまり消毒液「ヒビテン」が患者に投与されたことになるが、ごみ箱に捨てられた注射器になぜ「ヘパ生」、「ヒビテン」の両方が表示してあったのかは不明のままであった。患者に直接投与した注射器は見つかっていない。

 この医療事故は看護師の不注意によるものであった。医療事故を防ぐために、薬剤の確認は看護師1人では行わず2人以上のダブルチェックとしているが、今回はそれを擦り抜けてしまった。悦子さんの病理解剖が行われ、死因は急性肺血栓塞栓症によるものであった。消毒液ヒビテン液を注入した場合、急性肺血栓塞栓症を引き起こすかどうかは、前例がないので分からないが、いずれにしてもヒビテン液の注入による死亡であった。

 医療の事故が起きた場合は、即座に警視庁に届ける義務があるが、広尾病院が警察に届けたのは事件発生から11日後の2月22日であった。届け出までに日数がかかったことを、病院側は解剖結果が出るのを待っていたためと説明したが、遺族が被害届を出したことを知り、仕方なく届けたというのが真相であった。

 遺族側は、病院が通報を意図的に遅らせたとして院長らを医師法違反などで告訴した。警視庁捜査1課と渋谷署は点滴を行った看護師や病院関係者から事情聴取を行った。患者の遺体はすでに火葬されていたため司法解剖はできず、注射器に入ったヘパ生とヒビテン液は事故直後に破棄されていたため、病院の診療経過や消毒液の保管状況などの捜査が進められた。

 警視庁捜査1課と渋谷署が残されていた女性患者の血液や臓器などを専門機関に鑑定を依頼、その結果、女性患者からヒビテンの生成物が検出され死因が確実となった。

 3月3日、警視庁捜査1課と渋谷署は、院長、医師、看護師、都衛生局副参事ら計9人を業務上過失致死と医師法違反の疑いで東京地検に書類送検した。業務上過失致死容疑で送検されたのは前院長・岡井清士(64)、主治医(41)、当直医(29)、30歳と26歳の看護師2人だった。医師法違反と虚偽有印公文書作成では岡井前院長、前副院長(59)、副院長(59)、主治医、病院事務局長(56)の5人が、医師法違反では都衛生局副参事(51)が、証拠隠滅では前院長、主治医、30歳の看護師の3人が送検された。

 この医療事故は病院側が間違った点滴で主婦を死亡させたことに加え、事故の通報を遅らせ、死因を偽るなどの悪質な事故隠しがあった。医師が変死であることを知りながら死亡証明書の死因欄に「病死及び自然死」と虚偽の記載をしていたのだった。医師法では医師が「異状死体」を取り扱った場合、24時間以内に警察に届け出ることを義務づけている。異状死体の定義はあいまいであるが、診療中または診察直後に急死し死因が不明の場合を含めることが、法医学会のガイドラインで定義されている。

 今回の医療事件は、事故直後に看護師が薬剤を取り違えたことを医師に報告。病院側が医療事故を早くから認知していた。警視庁は医師法違反での立件可能と判断した。また医師法違反に問われた都衛生局副参事は、病院側が警察に通報することを決めたのに、通報を見送らせたとされている。岡井前院長と主治医は、事故直後に点滴した注射器を捨てた疑いがあった。

 平成12年8月30日、医療ミスで患者を死なせたことを隠蔽したとして、医師法違反などに問われた岡井元院長(64)ら4人の初公判が東京地裁(小倉正三裁判長)で開かれた。岡井元院長と都衛生局副参事の秋山義和被告(52)は無罪を主張し、「医療ミス隠し」の刑事責任をめぐって検察側と被告側が対決することになった。

 岡井元院長は「医師を指揮監督する立場になかったことから、起訴事実をすべて否認します」と述べ、秋山課長も「警察への届け出を遅らせる行為をしていない」と否認した。業務上過失致死罪に問われた同病院看護師の亀井晴子(30)、丹内貴子(27)両被告は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 小倉正三裁判長は「薬剤の取り違えという通常では考えられない初歩的なミスをした責任は重大である。誤薬投与で苦しみに襲われ、命を落とした被害者の無念さは察するに余りある」として亀井晴子看護師には禁固1年(執行猶予3年)、丹内貴子看護師には禁固8月(執行猶予3年)を言い渡した。秋山義和・元都衛生局副参事については医師と共謀する認識があったとは考えにくいとして無罪とした。秋山義和は医師ではなく、医療ミスの内容も十分な情報を得ていなかったとした。 

 今回の事故で一番問題になったのは、無色無臭の点滴用薬剤と外用薬剤が同じ注射器で管理していたことである。またこの事件の背景には、看護師の慢性的な過労があった。医療現場では間違いは決して許されないのだから、看護師にはミスを犯さないような余裕のある勤務状態にすべきだった。今回の事故は看護師だけのミスというより、多忙な医療システムが生んだ事故と言える。

 届け出を遅らせた主治医(41)は医師法違反で罰金2万円、医業停止3カ月の処分となった。医師法違反などの罪を問われた岡井清士元院長は最高裁まで上告したが、平成16年4月13日、最高裁は懲役1年執行猶予3年の判決を下し、また医業停止1年の行政処分を受けた。この医療事件で注目すべきは、無罪を主張していた岡井清士元院長が最も重い罰を受けたことである。異状死をすぐ警察に届けなかった義務違反が問われたのである。

 医師法21条は「医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときには、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と異状死体の届け出を義務付けている。この医師法21条は明治7年に設定された法律で、本来、犯罪捜査に協力する観点からつくられたものである。

 病院長にとっては、病院の名誉のため、部下を守るため、それまで医療ミスを隠くそうとする傾向があった。しかし今回の事故で、隠そうとした院長が最も重い刑罰を受けたため、この事故以来、病院長の保身的心理から、医療事故の可能性があればすぐに公表し、当事者を警察に通報するようになった。医療における不幸な結果が、医療ミスが確実ならば通報は当然であるが、正当な治療によるものなのか、医療ミスによるものかの判断は困難な例が多いのである。それにもかかわらず、24時間以内のしばりがあるため、灰色でも白の事例でも、院長は不明の時点で警察に届けるようになった。届けられた警察にとっては、それは自首と同じと捉え、灰色でも白でも、当事者を犯人と思い込み取り調べるようになった。