結核緊急事態宣言

結核緊急事態宣言 平成11年(1999年)

 平成11年7月26日、厚生大臣・宮下創平は、NHKのニュースで「結核患者数が再び増加していることから、結核対策の強化を求める」と緊急事態を宣言した。政府が緊急事態を宣言することは極めてまれで、過去には終戦直後にGHQが発動した1回だけであった。しかも特定疾患についての緊急事態宣言は異例中の異例で、隣国が攻めてきたかのような緊迫感があった。

 宮下厚生大臣が危機感に満ちた顔で「結核患者数が再び増加傾向に転じた」という言葉に国民は驚き、忘れかけていた結核が再び猛威を振るい始めたと思った。宮下厚生大臣は「せきが続く場合は、風邪と思い込まずに医療機関に受診するように」と呼び掛けた。また厚生省は同日、医療関係17団体と関係省庁の代表者らを集め「結核対策連絡協議会」を発足させ、結核対策の強化を求めた。 

 昭和20年代の結核の新規患者数は年間約50万人、死者約12万人であった。しかしかつて国民病と恐れられていた結核は、抗結核剤の開発、生活水準の向上、予防接種の効果などで急速に減少し、緊急事態宣言が出た平成9年の結核患者は4.2万人、結核による死亡者数は2700人であった。このように結核が減少しているのになぜ「結核緊急事態宣言」だったか。

 厚生省は「結核患者が急増しており、国民1人1人が結核を過去の病気としてとらえているのであれば、将来に大きな禍根を残すことになる。これまで減少を続けてきた結核の新規発生患者が38年ぶりに増加に転じた」と仰々しく述べた。「適切な対策を講じなければ、今度10年間に3000万人が死亡する」と誇大妄想を堂々とのべた。

 しかしこのことが緊急事態を宣言するほどの事態だったのだろうか。この結核患者急増に驚いた人たちが多かったが、実際には、急増といっても新規患者が前年より243人増加しただけで、その増加率はたった0.5%にすぎなかった。しかも増加したのは高齢者の人たちで、60歳以下の年齢ではむしろ減少していたのである。

 病院のロビーには「結核は過去の病気ではありません。年間新規発生患者数42715人、死亡者数2742人」「発病者1日120人、3時間に1人が死亡」と大きなポスターが張り出された。しかし当時を振り返れば、交通事故死は年間1万人、自殺者は年間3万2000人であった。交通事故死や自殺者に比べれば、結核死亡者は緊急事態に値するとは思えないが、大本営発表にマスコミも踊らされ、世の中は結核不安症の健康人だらけとなった。「くしゃみ3回、ルル3錠」という有名な宣伝文句があるが、この緊急事態宣言によりくしゃみ3回で、健康人が病院に列をなした。

 この厚生省の発表に異を唱える学者はいなかった。多剤耐性結核、集団結核、院内感染、高齢者の結核の増加、これらの脅し文句により科学者を自負する医師でさえ惑わされたのである。テレビでゴマが良いと言えば3食ゴマ尽くし、水道水が危ないと言えばガソリンより高い値段のミネラルウォーターを買い、太陽がカルシウム代謝に良いと言えば日光浴、皮膚がんが増えていると言えば外出禁止令。このように「結核緊急事態宣言」は例外的なものを脅しの材料に、国民に不安という病気をばらまいた典型例である。

 当たりもしない宝くじで1等が当たる確率は、東京と名古屋間に千円札を並べ、目をつぶってその中の1枚を取り出す確率と同じである。宝くじは夢を売る商売だからまだ許されるが、不安神経症を増やすだけの緊急事態宣言などは騒乱罪に値する愚行である。

 厚生省は各自治体の保健所を中心に結核対策の強化、医療関係者には結核の基本的知識の確認や院内感染の予防、老人施設に対しても、患者が発生した場合の適切な対応などを要請した。また、国立療養所を拠点とする専門医療体制を充実させる方針を表明した。

 この厚生省の緊急事態宣言の成果とは思えないが、翌年以降、結核死亡率、罹患率ともに減少している。結核の緊急事態宣言は、結核の減少により職を失うことを案じた結核専門家の緊急事態宣言だったといえる。