神戸・淡路大震災

神戸・淡路大震災 平成7年(1995年)

 平成7年1月17日午前5時46分、淡路島北端付近を震源地とするマグニチュード7.2の地震が発生。被害は神戸市を中心に、淡路島から大阪市西部まで広範囲にわたり、死者6434人、負傷者4万3792人、全壊家屋10万4千戸、破損家屋40万戸、避難民30万人の被害をもたらした。高速道路、鉄道、家屋が無残にも倒壊し、2500カ所以上で火災が発生し、関東大震災以来の大惨事となった。

 地震直後の午前6時、NHKは第1報として「神戸では震度6で、大きな被害は確認されていない」と伝えた。7時のニュースでは「家屋が倒壊し7カ所から出火している」と伝えたが緊迫感はなかった。神戸市内は電話が不通となり、現場の被害状況が分からなかったのである。

 午前8時になると、神戸市上空からヘリによる生放送が中継され、緊張感が増してきた。神戸市内3カ所以上で火災が発生、ヘリの記者は「神戸が燃えています」と叫んだ。中継は次々に被害の状況を映し、阪神鉄道の車両区で車両が転覆している画像、阪神高速道路の橋桁が崩れ、バスが高速道路から落ちそうになっている映像を映したが、この時点での死亡者は2人と放送していた。9時を過ぎると、ヘリは激しく燃えさかる火災状況、神戸市内が黒煙でかすんでいる様子を映し出し、つぶれた阪神伊丹駅、倒壊した生田神社の社殿が放映された。午前9時30分、兵庫県警察本部は3人が死亡、332人が建物に閉じこめられていると伝えた。

 「神戸では地震が少ない、起きたとしても大地震はない」との先入観があったが、時間とともに火災は広まり、市内は焼け野原と化した。電柱は倒れ、道路は瓦礫で覆われ、崩れた家の下敷きになった人を救出する様子が映し出された。夕方には死者・行方不明者は2000人以上と公表された。ビル、橋、高速道路は耐震構造が成されていると思い込んでいたが、高速道路は倒壊し、ビルは傾いた。

 傾いたマンションはあったが、マンション住民の死者はほとんどなかった。建築基準法が厳しくなった昭和57年以降に建築されたビルの人的被害は少なく、高層ビルの被害もほとんどなかった。多くの人命が失われたのは木造家屋で、倒壊による犠牲者が9割で、火災による犠牲者が1割であった。

 神戸市の長田区は木造住宅が密集していたため、地震直後に崩壊し、火災により6,000棟以上が焼失した。防火貯水槽は少なく、水道管は破裂し、消防士はホースを持ったまま立ち尽くすしかなかった。各地の消防車が応援に来たが、消火栓とホースの規格が合わず、思うように消火ができなかった。

 内閣総理大臣・村山富市はテレビのニュースで震災を知ったが、秘書官からの情報は遅れ、通常国会対応、新党問題、財界首脳との食事会に追われ、十分な対応を行わなかった。また政府は、フランスの捜査犬を中心とした災害救助隊が現地に入ること許可せず、この日本の危機管理能力の低さが非難された。

 自衛隊は6時30分、全部隊に非常勤務を発令。航空3機が偵察のため離陸、陸上自衛隊は神戸周辺で待機した。自衛隊法により「自衛隊は県知事の要請がなければ救助できない」ことになっていた。10時00分、兵庫県知事から自衛隊に派遣要請があり、待機していた自衛隊が救助に向かった。知事が派遣を要請しなかったのは現場の混乱のためとされているが、派遣要請をしたのは県知事ではなく、県知事の名前を無断で語った兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行の機転であった。これを教訓に自衛隊への派遣要請は県知事以外に市町村長または警察署長も行えるように制度が改められた。

 長田区にある神戸市立西市民病院は西病棟の5階が押しつぶされ、44人の患者と3人の看護婦が5階に閉じこめられた。職員が5階に駆けつけ、二次災害の危険があるにもかかわらず、瓦礫の中を這いながら横穴を進むように12人を救出。午後2時にレスキュー隊が到着し34人を救出。翌日、自衛隊が最後の1人を遺体で収容した。死亡したのは廊下を歩いていた患者で、他の患者はベッドの上に寝ていたのでベッド柵に守られ、看護婦は詰め所にいて無事であった。

 ポートアイランドにある神戸市立中央病院には1000人近い患者が入院していて、当直医11人、看護婦75人、それに職員たちがいた。地震と同時に停電、断水、ガスが停止、病院が真っ暗になった。それでも負傷者が病院に殺到したが、人工呼吸器は使えず、検査の器械は壊れ、断水のため手も洗えず、懐中電灯の明かりで創傷処置をおこなった。ポートアイランドは液状化現象で泥状となり、橋は使えず神戸市立中央病院は周囲から孤立した。

 神戸市内の病院には地震直後から多くの負傷者が押し寄せてきた。重症か軽症かを判断している余裕はなく、停電、断水のなかで救急蘇生がおこなわれた。軽症の入院患者を退院させてベッドを確保したが、それでもベッドが足りず、外来、廊下、待合室、ロビーなど、足の踏み場もないほどになった。

 病院には負傷者だけでなく、避難者も集まってきた。安全な場所として病院に避難してきたのである。医師や看護婦は震災時を想定して出勤訓練をしていたので、家族を振り払い、瓦礫の山を乗り越えて病院に集まった。当時、携帯電話は普及していなかったので、医師は家族と連絡がとれずに、泊まり込んでの治療になった。3日が勝負だった、3日経てば救援隊が来ると信じてていた。震災から数日後、全国からの援軍が神戸を目指した。医師、看護師、その他135万人のボランティアが駆けつけた。

 外国のメディアは、略奪などの犯罪行為がほとんど起きなかったと高く評価、また神戸に本拠を置く暴力団・山口組が地域の人たちに援助物資を配っていたことも小さなニュースとなった。山口組は全国の暴力団を支配下に置き、全国の暴力団に食料品の収集を命じ、山口組の命令は絶対なので、全国から食料品が豊富に集まったのである。暴力団は絶対悪とのイメージがあるが、日本政府の対応が貧弱だったことを思うと、暴力団の古き義理と人情を美談ととらえても悪くはないと思う。

 神戸淡路の震災で忘れてはいけないのは、近代都市でも震災には無力であること、政府はなかなか助けてくれないことである。さらに犠牲者のほとんどが家屋の倒壊、倒壊による火災によるものだったことから、家屋の耐震構造の必要性が重要である。

 神戸には地震はこないとの過信があったが、関東大震災だけでなく、日本のあらゆる場所でいつ地震が起きても不思議ではない。当たるかどうか分からない地震予報よりも、日頃からの地震対策が大切である。