神戸酒鬼薔薇事件

神戸酒鬼薔薇事件 平成9年 (1997年)

 平成9年5月27日の早朝、兵庫県神戸市須磨区「友が丘中学校」の正門前に、切断された男児の頭部が置かれているのを職員が見つけた。生首には口から耳元にかけて切り裂かれ、口には紙片(犯行声明文)をくわえさせていた。底知れぬ恐ろしさがあった。

 

さあ、ゲームの始まりです。

愚鈍な警察諸君

僕を止めてみたまえ

ボクは殺しが愉快でたまらない

人の死が見たくてしょうがない

汚い野菜共には死の制裁を

SHOOLL KILL

学校殺死の酒鬼薔薇

 

 犯人は自らを「酒鬼薔薇聖斗」と称し、この声明文はあたかも捜査機関への挑戦状のようであった。切断された頭部は、数日前から行方不明だった多井畑小学校6年生の土師淳(はせじゆん)君(11)のものであった。同日午後3時頃、土師淳君の住むマンション近くの通称「タンク山」のアンテナ基地で土師淳君の胴体部分が発見された。

 殺害された土師淳君は、事件3日前の24日午後1時30分頃、「おじいちゃんのところへいってくる」と言ったまま行方不明になっていた。土師淳君は加茂川市民病院放射科医土師守さん(45)の次男で、家族、地元住民、学校関係者、須磨警察署ら160人が懸命に淳君を探していた。

 須磨ニュータウンでは数ヶ月前から、友が丘中学校の周辺では、小学生を狙った通り魔事件が多発していた。同年2月10日、小学6年生の少女2人が、路上で頭をハンマーで殴られ1人が重傷となっていた。3月16日には小学校4年生の少女が、公園で頭部を金槌で強打され1週間後に脳挫傷で死亡していた。さらに小学校3年生の少女が腹部をナイフで刺されていて、地元では連続通り魔事件に不安を抱いていた。

 この通り魔事件と酒鬼薔薇事件との関連性は不明であったが、殺害した少年の首を校門に置くという猟奇的事件に、マスコミは連日報道を繰り返した。テレビでは酒鬼薔薇事件一色になり、事件直前に黒いセダンが中学校正門前に停車していて、黒いビニール袋を持った30代の男性の目撃情報があった。テレビは犯罪心理学者や評論家を総動員して犯人像を探った。犯行背景、犯人像が何度も語られ、大学生以上の変質者による犯行とされたが、彼らの分析は完全に間違っていた。

 6月4日、酒鬼薔薇聖斗から2回目のメッセーが神戸新聞社に郵送されてきた。そこには酒鬼薔薇は「おにばら」ではなく「さかきばら」であること、犯行動機は自分の存在をアピールする為で、自分自身を「透明な存在」と表現し、その文章内容は大人が書いたものと思われた。警察をあざ笑うような声明文には、犯人でなければ知らない内容が含まれていて、いわゆる秘密の暴露から犯人が書いたとされた。

 ところが6月28日、須磨警察署はそれまでの犯人像とは違う近所に住む少年A(中学3年生)を土師淳君殺害容疑で逮捕。Aは女子小学生の連続通り魔事件についても自白した。このことが臨時ニュースで流れると、あの残忍な犯行が普通の中学生によって行われたことに、多くの国民は動揺を覚えた。少年を知る近所の人たちは、「まさかあの少年の犯行だったなんて」、と信じられない様子だった。

 これまでの少年犯罪は、家庭環境や生活環境、学校や友人関係などの問題が犯罪を誘発したと分析されてきた。しかし少年Aには、そのような分析では解明できない普通の中学生だった。Aの父親は大手製薬会社に勤務し、母親、弟(中学1年生)と末弟(小学校4年生)と暮らすごく普通の家族だった。母親の躾は当初は厳しかったが、Aが小学4年生の時から放任主義になっていた。Aは祖母に可愛がられていたが、小学5年生の時に祖母が亡くなると、Aは近所の猫や小鳥などを殺すようになった。Aは土師淳と顔見知りで、Aが捜査線上に浮かんだのは、事件の数日前に友が丘中学正門で猫を殺していたところを目撃されていたからである。

 Aは24日、歩いている淳君を見つけ「遊びに行こう」と声をかけ、「竜の山」に誘った。午後2時ごろAはケーブルテレビ・アンテナ基地の付近で淳君の首を絞めて殺害。のこぎりなどで頭と胴体部を切り離し、胴体部をアンテナ基地の下に隠し、同27日早朝に頭部を中学正門前に置いた。

 凶器のハンマー、切断に用いた金ノコギリが発見され、少年宅から犯行メモが見つかった。Aには猫や小鳥などを殺すという残忍性はあったが、それは精神異常ではなく人格的な隔たりと思うが、その人格の隔たりが殺人に至ったことが不気味さを覚えさせた。

 少年法61条では犯罪を犯した少年の氏名、年齢、住所、容貌の公開は禁じられていた。しかし新潮社の週刊誌「フォーカス (平成9年7月9日号)」は少年の顔写真と実名を掲載し、翌日の「週刊新潮」にも少年の顔写真が目隠しで掲載された。さらにネットでは犯人の顔写真が流布した。

 少年事件の審判は非公開で、事件の詳細は不明であるが、「文藝春秋(平成10年3月号)」に少年の検事供述調書7枚分が掲載された。この供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしたものだった。革マル派はこの酒鬼薔薇事件を国家による冤罪とした。それは直接の目撃者がいないこと、あの犯行声明文を14歳の少年が書いたとは信じがたいこと、一連の殺害が普通の中学生には不可能と思えたからであった。

 平成9年10月13日、神戸家庭裁判所は少年Aを関東医療少年院に移し、平成13年10月から東北中等少年院に移り、平成16年3月に成人したA少年は少年院を仮退院した。平成16年12月、A少年は女医のカウンセリングの最中に、母親がわりの女医を押し、暴行未遂を起こしていたことが週刊新潮(平成17年1月20 日号)に書かれている。少年はすでに少年院を正式に退院し、私たちの社会のどこかで生活をしている。医療少年院で治療を受けたされるが、治療で治るのは病気であり、病気以外の性格異常によるものであれば、性格異常は治療やカウンセリングで治るものなのであろうか。

 この事件は14歳の中学生が、2人の小学生を殺害し3人に重軽傷を負わせたが、本当の動機は本人以外には分からない。あるいは本人も分からないかもしれない。人間を物と同じように扱う精神構造、残虐な深層心理、弱者虐待の犯行と感情、これらは通り魔事件と同じであった。快楽殺人のように「誰でもいいから殺したかった」のかもしれない。しかしこの殺害は酒鬼薔薇の名前とは裏腹に、少年犯罪のせいなのか、どろどろした悪意が感じられない。捜査内容、審議内容は少年であることから非公開であるが、これまでの犯罪学では説明しにくい事件であった。