松本サリン事件

松本サリン事件 平成6年(1994年)

 平成6年6月27日夜の11時頃、サリンによる無差別テロが長野県松本市北深志1丁目の閑静な住宅地で起きた。この松本サリン事件で7人が死亡し、重軽症者は500人以上に及んだ。

 最初にこの事件を通報したのは、会社員の河野義行さん(44)であった。河野さんは、妻(44)と一緒に自宅1階の居間でテレビを見ていた。すると、妻が突然「気分が悪い」とせき込み、心配した河野さんは、横になるようにと妻に言った。

 ちょうどそのとき、庭の犬小屋の周辺で物音がしたので外に出てみると、2匹の犬が倒れて、口から泡を吹き全身をけいれんさせていた。河野さんは、誰かが毒を投げ込んだと直感し、警察に知らせるため急いで部屋に戻ると、妻があおむけに倒れたまま意識を失っていた。驚いた河野さんは、すぐに119番に通報。この河野さんの救急車要請が、この事件の第一報であった。

 午後11時14分に、救急隊員が到着したときには、河野さんと長女(16)も苦しんでおり、救急車は家族3人を病院へ搬送した。午後11時30分、消防通信指令室は河野さん一家を中毒事件と判断。直ちに松本警察署、松本市水道局、松本ガスに調査のための出動を要請した。

 午後11時48分、河野さんの自宅の近くにある「開智ハイツ(4階建て)」の住人から「変なにおいがする」と119番通報が入った。翌28日の午前0時5分には「松本レックスハイツ(3階建て)」の住人からも「友人が気分が悪いと言っている」と通報があった。さらに明治生命寮(3階建て)や周囲の民家からも、救急車要請の電話が続々と入ってきた。いずれも、「目が痛い」「吐き気がして苦しい」「口から泡を吹いている人がいる」など切羽詰まった要請であった。

 いったい何が起きたのか、誰も分からなかった。救急隊がマンションに入ると、至るところに住民が倒れていた。アパートや民家から住民が次々と担架で運ばれていった。救急隊員は、住民の安否を確かめるため、マンションのドアをたたきながら走り回った。返事のない部屋の窓ガラスを割って中に入ると、何人かが床をかきむしるように死亡していた。閑静な住宅地を、救急車やパトカーのサイレンと赤いライトが交錯し、城下町の住民はパニック状態となった。患者は松本市内の6つの病院に搬送されたが、マンションで5人が死亡、救急車の中で2人が死亡し、重軽症者は500人以上の大惨事となった。

 その夜の松本市の気温は20.4℃で、それほど暑くはなかったが、小雨が降っていて湿度95%と蒸し暑く無風に近かった。被害に遭った人たちのほとんどは、窓を開けて寝ていた人たちだった。死亡したのはすべてがアパートの住民で、2階2人、3階4人、4階1人と上層階に集中していた。このことは建物の外で有毒ガスが発生し、大気中に上昇したと考えられた。気化した毒物が原因とされたが、その毒物が何なのかは誰も予想できなかった。

 翌朝の午前4時15分、松本警察署は「松本サリン事件」の第一報を発表。次々と被害者が運ばれる映像がテレビで放映され、日本中がこの事件の恐怖を知った。いったい何が起きたのか、誰が何のために、あるいは旧日本軍の毒ガスなのか…。不気味な不安が日本中を襲った。

 原因毒物は不明だったが、被害者の症状は有機リン系の農薬中毒に似ていた。診察した医師によると、患者の瞳孔は著しく縮瞳し、視野狭搾の症状があった。また血液中のコリンエステラーゼ値が低下し、唾液が多く出ることからも有機リン系の農薬中毒が考えられた。

 人間が死亡した場合、死亡の確認には瞳孔の散大が参考になるが、今回の犠牲者の瞳孔は縮瞳しており、縮瞳は有機リン系の農薬中毒の特徴であった。搬送された6つの病院どおしの連絡はなかったが、すべての病院が有機リン系中毒と診断、迅速な治療を行っていた。

 午前7時、長野県警は松本署に「松本市における死傷者多数をともなう中毒事故捜査本部」を設置。捜査本部は、捜査員310人体制で捜査を開始した。

 午前11時には、県衛生公害研究所と松本保健所の職員が、第一報を通報した河野義行さん宅に隣接した池(直径3m)の水や空気などを採取して検査を始めた。路上や庭先で小鳥や飼い犬などの死骸(しがい)が見つかり、池からは空気中の有毒ガスに触れていないはずの魚やザリガニの死骸が多数見つかり、周囲の草木の葉は赤く枯れていた。被害の範囲は河野さんの家を中心に半径約70mに及び、有毒ガスの発生源はこの状況から池付近とされた。松本市長は「心配な人は医療機関を受診して下さい。医療費は全額松本市が負担します」と発言した。

 有機リン系農薬中毒は、農薬を飲んで中毒を起こすケースがほとんどで、気化した農薬が中毒を起こすことはあり得ないことだった。また農薬にしては症状が強く、犠牲者も多過ぎた。そのため農薬とは異なる毒性の極めて強い有機リン系化合物が考えられた。

 松本保健所職員は被害状況の情報収集に努めたが、原因の手掛かりは得られなかった。日本中毒情報センターに照会したが分からなかった。松本保健所は参考書を集め、有機リン化合物等を想定して原因物質を特定しようとした。

 第一通報者の河野さんは、妻とともに入院して重体となったが、捜査本部は河野さんが犯人と確信していた。それはあまりにも偶然が重なったからである。河野さんの庭の池付近が有毒ガスの発生場所と考えられたこと、家族が倒れ飼犬が2匹死ぬなど被害が一番大きかったこと、河野さんは薬物の知識が豊富で多くの薬品を所持していたこと、これらのことから嫌疑をかけられたのである。

 捜査本部は、河野さんが農薬を調合中に誤って猛毒ガスを発生したと考えていた。そこで事件の翌日、「被疑者不詳の殺人容疑」で河野さんの自宅を家宅捜索した。「被疑者不詳」としたのは、河野さんがクロとの確信がないことを意味していた。捜査本部は、河野さん宅から写真現像用に使っていた青酸カリなど20数種類の薬品を押収。当初、青酸カリを所有していたことから、捜査本部は青酸カリ中毒も考えたが、被害者の症状などから青酸カリの関与は否定された。それでも捜査本部やマスコミは、河野さんが犯人であるがごとく扱った。

 使用された毒物は依然として謎のままだった。採取したサンプルの分析は、県警科学捜査研究所と県衛生公害研究所で同時に進められた。水質汚濁防止法や大気汚染防止法など公害関係法規で規制されている物質についての検査を始めたが、これらの物質は検出されなかった。そして池の水をクロマトグラムにかけて分析すると、スペクトルから毒物が特定できた。それはかつてナチス・ドイツが使用していた「サリン」だった。さらに犬小屋のバケツ、明治生命社員寮3階風呂場の洗面器の水からもサリンが検出された。

 分析の結果、毒物はサリンとなったが、サリンのサンプルがないため、国立衛生試験所に検査を依頼し、その結果サリンであることが確認された。事件から6日目の7月3日、捜査本部は記者会見を行い「サリンと推定される物質を検出した」と発表。この発表から、マスコミはこの事件を「松本サリン事件」と名付けて報道することになった。

 このサリンという毒物を知っている日本人はほとんどいなかった。それでもサリンが使用されたことは、偶発的な事故ではなく、大量殺人を目的とした意図的な事件を示唆していた。サリンは戦争以外に使われた記録はなく、そのサリンがなぜ松本で発生したのかが謎であった。

 サリンという聞き慣れない毒物は、1938年にナチス・ドイツが偶然に発見した極めて殺傷力の高い有機リン系の神経ガスである。呼吸器だけでなく皮膚からも吸収され、呼吸筋や心臓を麻痺させて死亡させることができた。ドイツでは地上の兵士の殺害を目的としていたので、その比重を空気より重い揮発性の物質として開発していた。

 サリンは、1988年にイラク軍がクルド人を鎮圧する際にも使用されていた。サリンの毒性は、青酸カリの500倍で、1gで2000人を殺すことができ、かなりの専門知識を持ち、特殊な装置がなければつくることはできない。

 サリンは、神経伝達物質であるアセチルコリンに作用することによって毒性を発揮した。正常人のアセチルコリンは、酵素によって分解されるが、サリンなどの有機リン系物質は、この酵素と結合してアセチルコリンの分解を抑え、中枢神経や運動神経を障害して死亡させるのだった。

 サリンは本来無色無臭の気体であるが、「松本サリン事件」では住民が刺激臭を感じていた。また神経に作用するガスなのに、樹木が枯れていた。このことから相当量の不純物が含まれていたとされた。

 現場からは製造した容器も、持ち運んだ容器も発見されなかった。化学兵器として使われる猛毒ガスが、なぜ住宅街で発生したのか。この謎を解く鍵が見つからず捜査は長期化した。大量毒殺を狙ったことは明らかだが、謎だらけだった。

 中毒物質がサリンと判明した後、河野さん宅から押収された薬品では、サリンは生成できないことが分かった。しかしそれでも捜査本部は河野さんへの嫌疑を捨てなかった。使用した薬剤を、河野さんが捨てたとしたのである。河野さんは入院中にもかかわらず、捜査本部による事情聴取は連日にわたり続けられた。捜査本部は、河野さんのポリグラフを取り自白を待った。さらに7月7日頃から、河野さんを犯人扱いする新聞やテレビによる報道が始まった。誰もが河野さんの犯行とあやしんだのである。

 もちろん河野さんは事件との関与を強く否定し、また一方で事件解明に協力するため、事情聴取に応じた。しかし捜査本部は河野さんを犯人と決めつけ自白を迫った。平成6年8月4日、捜査本部は河野義行さんの体調悪化を理由に、「松本サリン事件」についての聴取を見合わせると発表した。しかし河野さんは翌年3月20日の「地下鉄サリン事件」まで疑惑の人であった。

 「松本サリン事件」は、目撃者や物証に乏しいことから、捜査は長期化を余儀なくされ、迷宮入りもささやかれた。事件解決の鍵を握るのは、薬剤の入手ルートの解明であった。そこで捜査本部ではサリンの原料となる薬剤の購入者割り出しの捜査を始めた。サリンの原料となる薬剤ルートについて、全捜査員190人の約8割を投入して徹底的なローラー作戦を展開した。その捜査で浮上したのが、静岡県内に総本部を置くオウム真理教だった。事件の数カ月前、オウム真理教に関連する薬品会社が、サリン生成に必要な薬品類を大量に購入していた。またオウムの活動拠点である山梨県の上九一色村で、松本サリン事件から12日後の7月9日に悪臭騒ぎが発生、サリンの副生成物が検出されていた。

 捜査本部はオウム施設への強制捜査を検討していたが、宗教法人がなぜサリンをまく必要があるのか、その動機がつかめなかった。躊躇しているうちに、松本サリン事件から約9カ月後の平成7年3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。地下鉄サリン事件から2日後、警視庁はオウムへの強制捜査を実施。オウム信者が逮捕され、松本サリン事件の全容が明らかになった。地下鉄サリン事件が河野さんの冤罪を晴らすことになった。

 松本サリン事件の動機は、サリンの威力を試すことだった。事件前の平成5年11月と12月の2度にわたり、オウムは創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃しようとしたが失敗。そのため、人間への効果を確かめたい意図があった。松本サリン事件の標的は、長野地裁松本支部であった。オウムが松本市内に購入した土地をめぐり、元所有者とオウムとの間で明け渡し訴訟が争われていた。7月19日に、判決が言い渡される予定だったが、敗訴の可能性が強かった。そのため担当裁判官らを殺害して、訴訟の進行を妨害しようとした。

 松本智津夫(麻原彰晃、39)は「科学技術省大臣」村井秀夫(35)らに命じ、トラックを改造した噴霧車で攻撃を行わせた。松本は、村井ら幹部に具体的な方法を指示。それに従って、渡部和実(36)ら6人の幹部が、6月20日から事件当日までの7日間でトラックを改造し、噴霧器を取り付けた。サリンの製造は「化学班」のキャップ土谷正実(30)らが担当。平成5年12月下旬から平成6年2月中旬までの間に、上九一色村の実験棟でサリン約30kgをつくって保存していた。

 村井ら7人の松本サリン事件の実行犯は、6月27日午後10時40分頃、サリン12kgを積んだ改造トラックで松本市北深志1丁目の住宅街に到着した。標的は長野地裁松本支部であったが、到着が遅れて夜遅い時間になったので、地裁に人がいないと考え、裁判官宿舎に目標を変更した。防毒マスクを使用し、遠隔操作で約10分間、裁判官宿舎を狙い大型送風機の付いた噴霧器でサリンを噴射を続けた。実行犯は中毒になった場合に備え、解毒剤を積んだレンタカーを待機させていた。そして犯行後、逃走の途中で改造トラックを洗浄し、犯行を隠すためナンバープレートを変えた。

 松本サリン事件は、犯罪史上初めて毒ガスを用いた無差別殺人事件であった。捜査本部は平成7年6月、「松本サリン事件はオウム真理教によるもので、第一通報者の会社員である河野義行さんは無関係」とした。また新聞各社も「報道に誤りがあった」と紙面で公表し謝罪した。河野さんの容疑は晴れたが、愛妻の意識は回復しないまま、平成20年8月に息を引き取った。