東海村の臨界事故

東海村の臨界事故 平成11年(1999年) 

 平成11年9月30日午前10時35分、茨城県東海村の核燃料加工会社・JCO(ジェー・シー・オー)の東海事業所で臨界事故が発生し、作業員3人が大量の放射能を浴び2人が死亡、69人が被曝した。日本で初めての臨界事故で、しかも国内最大の原発事故となった。

 JCOは核燃料を加工する民間会社で、民家に隣接した工場でウラン濃縮を行っていた。天然ウランには0.7%のウランが含まれ、原発の燃料には5%、原子爆弾の原料には99%までウランを濃縮しなければいけない。JCO東海事業所は高速増殖実験炉「常陽」の燃料としてウランを19%に濃縮精製する作業を行っていた。

 濃縮ウランやプルトニウムは、一定の量以上になると原子炉と同じように核分裂を起こすことが知られている。この核分裂の連鎖反応をもたらす状態を臨界と呼び、臨界を超えると核燃料は爆発し、強い放射線を放出するのだった。東海村の臨界事故は、ウラン濃縮作業にしては、あまりにもずさんでお粗末なミスによるものであった。

 東海事業所では酸化ウランを精製するため、仮焼還元室と呼ばれる部屋で、3人の作業員が硝酸溶液にウランを溶かし、不純物を沈殿させる作業をしていた。正規のマニュアルでは臨界事故を防ぐため、溶解塔装置を使用し、沈殿槽に流し込むウランの流量は2.4キロに制限されていた。作業員が流入を間違わないように、流入するウランが一定量以上になると自動停止するように設計されていた。しかしこの安全装置が作動しなかったのである。

 信じられないことであるが、安全装置が作動しなかったのは、作業員が裏マニュアルをさらに簡素化し、ステンレス製のバケツを用いてウランの燃料を沈殿槽に直接注ぎ込んでいたからである。バケツを用いる手作業は、誰も想像もしないことであったが、作業員は放射能の危険を知らずにいたのだった。

 10時35分、作業員が規定の約7倍量のウラン溶液(16キロ)を沈殿槽に入れると、突然、青い閃光(せんこう)とともに、中性子線などの放射線が大量に放出したのである。核燃料工場が突如として原子炉となり、放射線発生を知らせる警報が工場に鳴り響いた。

 事故直後の東海事業所の敷地では最高毎時0.84ミリシーベルト(通常は0.0002ミリシーベルト)の放射線量が検出され、11時15分に臨界事故の第1報が科学技術庁にもたらされ、11時34分、JCOは東海村役場に臨界事故の可能性があると連絡。11時52分、大量被曝した3人の作業員が救急車で国立水戸病院に向けて出発した。

 通常の原子力発電所では1日当たり2から3kgのウランが消費されるが、この事故で核分裂を起こしたウラン燃料は1mgだった。1mgと少量であるが、裸の原子炉が瞬時に1mgを分裂させたのだからその被害は大きかった。

 東海村は、12時30分、防災放送で「加工工場で事故、外出しないように」と呼び掛け、施設から350メートル以内の住民約160人(約50世帯)を公共施設に避難させ、周辺の道路を遮断した。

 一方、政府の対応は遅かった。11時15分に科学技術庁に事故の第1報が入ったが、対策本部(本部長・小渕恵三首相)を設置したのは午後3時だった。夜の10時半になって、施設から半径10キロ以内の住民約31万人(10.7万世帯)に屋内退避が要請された。さらに半径10キロ以内の幼稚園、小・中・高校が休校。日立製作所工場などの工場が休業、農作物の収穫が中止、牛乳が出荷停止となった。住民たちは恐怖を感じながら、ひっそりと家の中にとどまった。

 10月1日、深夜2時35分、核の連鎖反応を止めるためJCO職員が内部に突入、沈殿槽の冷却水を抜き取る作業が始まった。被曝の恐れから1人当たりの作業時間は数分に制限され、18人が2人1組となって必死の作業となった。冷却水が出入りする水道管を外から壊せば冷却水を抜くことができた。

 午前4時頃、水道管をハンマーで壊し、事故から20時間後の朝6時半になって、中性子線の線量が基準値以下になった。この水抜き作業で18人全員が被曝した。10月2日の18時30分になって、住民への退避が解除され、小渕内閣はこの事故のため組閣が4日延期されることになった。

 作業をしていた3人は大量被曝により、国立水戸病院からヘリコプターで放射線医学総合研究所(放医研)に搬送された。さらに放医研から2人が東京大病院に転院し、骨髄移植などの集中治療がなされた。3人の皮膚は赤く焼け、嘔吐や下痢の繰り返し重体となった。

 放射線による50%致死線量は4シーベルトで、100%致死線量は7シーベルトであった。7シーベルトは一般人の年間被曝許容量の7000倍に相当する線量である。短時間に大量被曝した場合、細胞の再生能が破壊されるので、最新の医療でも手の施しようがなかった。医師団は刻々変化する症状に必死の治療に当たったが、同年12月21日、作業員・大内久さん(35)が死亡、翌年4月27日に篠原理人さんが死亡した。助かった横川豊さんは白血球数がゼロになったが、放医研で骨髄移植を受け、12月20日に無事退院となった。この事故で、隣接したゴルフ練習場の作業員3人、住民4人、事故の内容を知らずに出動した救急隊員3人、JCO職員59人が被曝した。

 原発事故は日本では起こり得ないとされていた。高い技術と十分な安全対策がなされている、と誰もが思い込んでいた。ところが放射能の危険性を認識しているはずの作業員が、臨界の危険性を知らず、裏マニュアルをさらに簡素化して作業を行い、さらに放射線量を測るための線量計すらも使用していなかった。このようにずさんな管理体制によって、日本の原子力行政の安全神話は崩壊し、危機管理体制が問われることになった。

 平成12年11月1日、越島建三所長ら6人が業務上過失致死罪、原子炉等規制法違反および労働安全衛生法違反で起訴され、平成15年3月3日、水戸地裁は、「臨界事故の背景には会社のずさんな安全管理体制があり、安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない。臨界に関する教育訓練はなされておらず極めて悪質」として、6人に執行猶予付きの有罪判決を下した。

 日本は電力の約3割以上を原子力発電に依存し、原子力発電を否定することはできない。原子力発電は危険性を内在しているが、何重もの安全装置を取り付け、十分すぎるほどの管理体制で危険性はないと誰もが信じていた。しかし今回の事故は、予想もできないほどの軽率なミスによるもので、科学技術の進歩を根底から揺るがすことになった。原子力発電の安全神話の中で、危険性を知らずに作業していた3人は最大の犠牲者であった。

 なお原子力発電所の事故の程度を示すものとして国際原子力事象評価尺度がある。評価尺度は危険性の高い順にレベル7から0の8段階に分類され、東海村の臨界事故はレベル4で、レベル4は「放射性物質の施設外への放出が少量で、従業員の致死量被曝があった場合」としている。過去の例としては旧ソ連のチェルノブイリ原発事故がレベル7、米スリーマイル島原発事故がレベル5であった。日本では平成9年の旧動燃東海事業所の施設火災爆発事故がレベル3となっている。