日本住血吸虫症終息宣言

日本住血吸虫症終息宣言 平成8年(1996年)

 平成8年2月、山梨県は日本住血吸虫症の終息を宣言した。終息宣言は撲滅宣言ではないので、日本住血吸虫症が完全に姿を消したわけではないが、終息宣言は撲滅宣言とほぼ同じ意味であった。山梨県は日本住血吸虫症の最大の感染地帯であったが、昭和51年に発症した患者が最後となり、昭和53年から卵陽性の患者が見られないことから終息宣言となった。明治以来、百年戦争と言われてきた撲滅運動がやっと実ったのである。

 日本住血吸虫症は「日本」という名前が付いているが、日本だけの特有の疾患ではない。世界中で見られるが、日本の名前が付いているのは、日本人がこの疾患を世界で初めて発見し、病態、治療について世界最先端の研究をしたからである。

 住血吸虫は、ヒトの血液の中に住む吸盤を持った寄生虫である。住血吸虫は世界では3種類のみで、最初に日本人が発見した日本住血吸虫、英国人のマンソンが発見したマンソン住血吸虫、ドイツ人のビルハルツが発見したビルハルツ住血吸虫である。日本住血吸虫は東南アジア一帯に生息しているが、マンソン住血吸虫、ビルハルツ住血吸虫はアフリカとブラジルをすみかとしている。住血吸虫は世界中に見られるが、撲滅できたのは日本だけである。

 日本住血吸虫は、山梨県の甲府盆地、広島県片山地方、福岡と佐賀両県の筑後川流域、静岡県沼津地区、千葉県の利根川流域などに分布し、古くから風土病として恐れられていた。

 戦国大名・武田信玄の事跡をまとめた「甲陽軍鑑」に、足軽大将の小幡豊後守昌盛が腹水で腹をパンパンにしながら、戦場に参加できないことをわびる場面が書かれているが、これが日本住血吸虫の最初の記載とされている。甲府地方では、この腹水の溜まる奇病は以前から知られていて、「流行地に行く花嫁は棺桶を背負ってゆけ」と民謡に歌われていた。

 明治14年、山梨県春日井村の村長・田中武平太が「この風土病をなんとかしてほしい」と山梨県知事・藤村紫朗に嘆願書を出したのが、日本住血吸虫との長い闘いの最初のページだった。明治19年には、徴兵検査のために甲府を訪れた石井良斎軍医が、腹水の溜まった男性たちに気付き、富国強兵のためこの病気の原因追求を藤村県知事に申し出た。このことから官民一体の病因追求となった。この奇病は高熱、下痢、血便をきたし、やがて慢性的な倦怠感に襲われる。手足はやせ細り、腹水で腹が膨れ上がり、死亡する者が多かったが、この奇病の原因はまったく分からなかった。

 明治30年、西山梨郡に住む農婦・杉山なか(54)がこの腹水が溜まる奇病に伏した。そして杉山は「この病気の解明のために、自分を解剖してください」と主治医の吉岡順作に遺書を残して死亡した。山梨県での遺体解剖は、杉山が初めてのことである。解剖は玉緒村向(現・甲府市向町)の盛岩寺で行われた。境内にテントが張られ、5人の医師が解剖し、その周囲を50数人の医師が取り囲んだ。解剖の結果、肝臓や大腸に虫卵を発見。成虫は発見されなかったが、この虫卵が寄生虫の卵であると予測された。この解剖の詳細は、当時の山梨県医師会報に記載されている。

 日本住血吸虫症の撲滅には、日本人研究者の功績が大きい。明治37年、岡山医学専門学校病理学教授・桂田富士郎は、この奇病の解明のため山梨県大鎌田村の開業医・三神三郎の家で研究を行い、感染したネコの体内から杉山なかの解剖で発見されたのと同じ虫卵を見出し、さらに肝臓の門脈から世界で初めて成虫を発見した。また同年、京都帝大の藤浪鑑が患者の肝臓の門脈に虫体を発見、吸盤を持つ成虫の形態、また血液の中に住むこと、さらに日本で発見されたことから日本住血吸虫と学名がつけられた。

 次は感染経路であったが、飲水による経口感染なのか、経皮感染なのか分からなかった。そのため牛に長靴を履かせ、あるいは口袋を付け、実験が繰り返された。ある医師は流行地の田に素足で入り、自分の身体を用いて感染実験を試みている。明治42年に、桂田富士郎、長谷川恒治、藤浪鑑、中村八太郎は、動物が水に浸かることによって皮膚から日本住血吸虫が感染することを証明。このことから日本住血吸虫の経皮感染までは分かったが、その生活環は謎に包まれていた。

 同じころ、九州帝大の宮入慶之助と助手の鈴木稔は、九州地方に流行していた日本住血吸虫症根絶のための研究に着手していた。宮入慶之助は「日本住血吸虫には必ず中間宿主がいる」と考え、そして大正2年、中間宿主である宮入貝(ミヤイリガイ)を発見した。宮入貝の発見は日本住血吸虫の生活環の解明し、感染の予防法と撲滅を可能にした。宮入慶之助はこの世界的な功績によりノーベル賞候補に推薦されている。

 日本住血吸虫は、患者の便から排出された虫卵が、川の中でふ化することから始まる。水中でふ化した幼生(ミラシジウム)が中間宿主である宮入貝に侵入、そこで増殖成長してセルカリアとなる。セルカリアは宮入貝の体表を破って泳ぎだし、水に浸かったヒトの皮膚から体内に侵入。腸から肝臓へつながる門脈に寄生し、そこで成虫となった。

 日本住血吸虫は、雌雄が抱き合った形で大量に産卵する。虫卵は患者の便と一緒に排出され、虫卵は水中で孵化(ふか)し宮入貝へ感染する。このようにヒト、宮入貝、ヒトへと感染サイクルが形成された。

 日本住血吸虫が皮膚から感染すると皮膚がかぶれ、次第に発熱、食欲不振、全身倦怠感などがみられ、腹痛、下痢、腹部膨張などの症状を示すことが多い。さらに肝臓に大量の虫卵が運ばれると、肝臓の血管が閉塞して肝障害や肝硬変を引き起こす。肝硬変により腹水がたまり、腹が膨満するのである。また虫卵が血行性に肺や脳に流れると、てんかん発作や肺うっ血を引き起こした。このように虫卵が血管を閉塞することで、さまざまな障害を引き起こした。

 日本住血吸虫症の撲滅には、河川や農業用水に生息する宮入貝の駆除が有効である。この貝を絶滅すれば、この病気も撲滅できるはずであった。そのため生石灰や石灰窒素などを田畑に散布し、火炎放射で宮入貝の駆除が進められた。

 また大便中の虫卵を殺すため便所が改良され、用水路をコンクリートで固め宮入貝を生息させないようにした。水路をコンクリートで固めれば、水の流れが早くなって宮入貝が住めなくなるからである。山梨県では、昭和32年から水路のコンクリート化が重点的に進められ、平成3年までに釜無川、御勅使川近辺の延長2400kmに及ぶ水路はすべてコンクリート化された。

 このように国が積極的に多額の資金をつぎ込んだため、宮入貝は次第に減少し、昭和53年以降、患者の発生はみられていない。また宮入貝からも日本住血吸虫の幼虫は発見されていない。このことから日本住血吸虫症の終息宣言が出されることになった。

 現在、日本の三大病は「がん、心臓病、脳血管障害」である。しかし世界の三大病は「マラリア、フィラリア症、住血吸虫症」である。日本では日本住血吸虫症が撲滅されたが、海外では現在でも多くの犠牲者を出している。日本住血吸虫は中国やフィリピン、インドネシアにも分布し、中国では160万人を超える感染者がいるとされている。

 世界保健機関(WHO)は、平成6年の感染者は2億人で年間50万人が死亡していると発表している。ガーナにある世界一大きな人造湖であるボルタ湖周辺では、子どもたちの90%以上がマンソン住血吸虫に感染している。

 日本で日本住血吸虫症を根絶できたのは、流行の規模が小さかったからである。日本以外の国は、現在でも多くの犠牲者を出しているが、それは流行地の規模が大きすぎるからであった。例えば中国の揚子江流域から中間宿主貝を消滅させることは不可能である。また野生動物も宿主となるのでヒトだけを治療しても住血吸虫症を撲滅できない。このように海外で感染を減らすことは困難で、現在は住血吸虫症の特効薬としてプラジカンテルが広く用いられている。