所沢ダイオキシン汚染

 平成11年2月1日、報道番組・ニュースステーションで所沢産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたことが報道された。「汚染地の苦悩・農作物は安全か?」と題した報道によって視聴者の不安があおられることになった。テレビ朝日は「所沢の野菜のダイオキシン濃度は非常に高い数値。40kgの子供がホウレンソウを20g食べると世界保健機関(WHO)が1日の摂取量として決めた基準値に達してしまう」と、焼却炉からの灰がホウレンソウに降りかかる画像を背景に解説した。この報道の翌日から所沢産のホウレンソウは暴落し、埼玉産の野菜までがスーパーの店頭から姿を消すことになった。所沢市産のホウレンソウが約4000万円の損害、埼玉県産の野菜全体では約3億円の損害となった。
 このダイオキシンのデータは民間調査機関である「環境総合研究所」(東京都品川区、青山貞一所長)が独自に調査したもので、所沢の野菜の葉っぱものから1グラム当たり最高3.8ピコグラム(1ピコは1兆分の1)のダイオキシンが検出されたという内容であった。この数値は、厚生省が全国調査した野菜類のダイオキシン最高濃度の9倍であった。
 この騒動で真っ先に疑惑の目が向けられたのは産業廃棄物業者だった。所沢市北部から狭山市、川越市、三芳町にまたがる「くぬぎ山」地区には、雑木林に30カ所以上の焼却炉の煙突が林立し、狭い道を次々に大型トラックが通り抜けていた。積み上げられた建築廃材、煙突からの黒い煙などから「くぬぎ山地区は産廃銀座」と呼ばれ、ダイオキシン汚染を想像させるに十分であった。ダイオキシンは猛毒で、2月15日、埼玉県は業者に産廃焼却炉の操業自粛を要請したほどであった。
 しかし2月18日、埼玉県が「テレビ朝日が報道したダイオキシン濃度の野菜はせん茶である」と発表。葉っぱものとテレビで報道されたのは、ホウレンソウではなく、乾燥加工されたお茶の葉だったのである。お茶の葉であれば、お湯を注いでもダイオキシンは最大限1.7%しか溶け出さないことから問題はなかった。テレビ朝日はこの事実を知らずに報道したのだった。
 環境総合研究所は「サンプルを提供してくれた農家に迷惑がかからないように葉っぱものと表現した」と弁解したが、「ホウレンソウの映像を背景に葉っぱもの」と放映すれば、ホウレンソウなどの野菜を連想するのが当然のことであった。「お茶の葉を、野菜の葉っぱもの」と表現したのは誰が考えても間違いである。
 2月18日、ニュースステーションの番組で、久米宏キャスターは「ホウレンソウの生産農家の方に大変な迷惑をおかけしました」と両手をついて頭を下げた。その一方で、テレビ朝日は誤報ではないとして訂正放送には応じず、風評被害には該当しないと見解を示した。この番組の背景には、所沢市農協(JA所沢)が2年前に市内の野菜のダイオキシン濃度を調査したのにそのデータを公開しなかったことがあった。公表しなかったことから、公表できないほど高濃度に汚染されていると誤解したのである。JA所沢への情報開示が、テレビ朝日の番組作成の趣旨であった。この騒動後、JA所沢は「ホウレンソウなどのダイオキシン濃度は、厚生省が全国調査した平均値とほぼ同じ程度だった」と述べ、それまで公表しなかったのは、国の安全基準がないことから風評被害を生むことを避けたかったと説明した。
 埼玉県は安全宣言を出し混乱も収拾に向かったが、野菜の価格は約2カ月以上も混乱することになった。中川昭一農林水産相は「国民を惑わす風評被害の最たるものだ」と述べ、番組での訂正を申し入れ、衆院逓信委員会はテレビ朝日の伊藤邦男社長を参考人として招致し、6月には野田聖子郵政相がテレビ朝日に厳重注意の行政指導を行った。
 9月2日、所沢市の農業生産者の有志376人が「野菜の汚染報道により野菜価格が暴落した」として、テレビ朝日と環境総合研究所に総額約2億円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を浦和地裁に起こした。テレビ朝日は「JA所沢が情報開示しなかったので、問題を提起したのであって、補償は情報公開しなかったJA所沢と国の責任」と反論した。
 浦和地裁は、「一般視聴者がテレビ報道から受ける印象は千差万別で、テレビ局の報道による表現行為を著しく規制することになりかねない」として、農民側の請求を全面的に棄却した。1審、2審ともテレビ朝日が勝訴したが、上告審の最高裁(横尾和子裁判長)は、「放送内容が真実だったとは証明されない」と述べ、1審、2審判決を破棄して東京高裁に差し戻した。テレビ朝日は「最高裁の事実認定に誤りがある」と争う姿勢をみせたが、最終的に和解に応じ、「報道に不適切な部分があり、所沢産の野菜の安全性に疑いを生じさせ、農家に多大な迷惑をかけた」と農家側に謝罪し、和解金1000万円を支払うことになった。
 テレビ朝日が和解に応じた本音は分からないが、裁判で勝つことよりも世論を恐れたのではないだろうか。農家側は和解金の900万円を三宅島の農業再建のため、100万円を所沢市の子供の「食農教育」のために寄付をした。
 環境汚染による風評被害については、平成元年5月、敦賀湾の原子力発電所の「放射能漏れによる魚介類の売り上げ減」での名古屋高裁金沢支部判決がある。この裁判では原告の請求を棄却したが、「放射能の漏出数値が安全でも、消費者が魚介類を敬遠する心理は是認でき、事故と売り上げ減には因果関係がある」との見解を示した。今回の訴訟では、ダイオキシン汚染報道と野菜価格の暴落について裁判所は因果関係には触れず、名誉棄損として和解を勧めたのだった。
 当時、国民の健康や安全にかかわるダイオキシンについて、国の基準は決められていなかった。また焼却炉の立地規制や排ガス規制もなかった。環境問題の報道には十分な確認が必要であるが、農作物のダイオキシン汚染は国民の生命と健康に直接かかわることなので、報道を一方的に間違いと罰すれば、警鐘を鳴らすべき報道が萎縮してしまう恐れがあった。報道の使命は「事実の報道、あるいは問題提起」であるが、このダイオキシン騒動は環境問題の報道の難しさ、さらにテレビ報道の影響力の大きさを見せつけられた。
 今回のダイオキシン報道は、所沢市の野菜汚染が焦点になったが、汚染を作り出す可能性のある産業廃棄物焼却施設が所沢市に集中していること、農作物のダイオキシン濃度の安全基準を決めていない行政の不作為が本質的な問題であった。所沢市に集められた産業廃棄物の約半分は東京から運ばれたもので、所沢市は東京の産業廃棄物(年間約400万トン)の犠牲者であって、テレビ朝日は農家と争うより、農家を環境汚染の被害者として、食の安全基準を決めていなかった行政に対して問題提起すべきだったと思われる。