愛犬家連続失踪殺人事件

愛犬家連続失踪殺人事件 平成6年(1994)

 長野県塩尻市の畑の跡地から女性の遺体が発見され、平成6年1月26日、大阪府警はかねてから疑いを持っていた自称「犬の訓練士」・上田宜範(39)を逮捕した。上田は犯行を否認していたが、間もなく殺害を自供した。

 当初、この事件の被害者は1人と思われていた。にもかかわらず、上田宜範は男女計5人を殺害していたことを自白したのである。殺害の動機は、犬の繁殖所、訓練所開設をめぐる出資金のトラブルで、 5人はいずれも筋弛緩剤「サクシン」(塩化スキサメトニウム)を注射されて殺害され、塩尻市の畑の跡地に埋められていた。

 この事件の発覚は、1人の主婦の失踪(しっそう)がきっかけだった。平成5年10月29日頃、大阪府堺市の主婦・志治信子さん(47)が自宅にメモを残したまま行方不明となった。志治さんを探していた家族は、動物病院で思いがけない話を聞いた。それは動物病院の常連客である大阪市住吉区の主婦の高橋サチ子さん(47)も、行方不明になっていたことである。2人の主婦に共通することは、上田宜範と知り合いだった。

 志治信子さんは平成3年9月頃、犬の散歩中に上田から声を掛けられて知り合いになり、失踪直前に1070万円の預金を引き出していた。高橋サチ子さんは、動物病院で上田と知り合い、失踪直前に銀行から50万円を下ろしていた。

 信子さんの家族は、上田の知り合いだった大阪市の無職・藤原三平さん(35)に連絡を取ろうとしたが、藤原さんも行方不明になっていた。藤原さんは、平成3年秋頃に犬の雑誌を通じて上田と知り合い、平成4年7月に上田の銀行口座に訓練所の出資金として30万円を振り込んでいた。そして出資金をめぐり上田と口論になっていた。

 藤原三平さんは、上田宜範と塩尻の訓練所予定地を訪ねてから姿を消していた。このように失踪した3人は、いずれも上田と知り合いの愛犬家で、上田から犬の繁殖所や訓練所の共同経営の話をされていた。

 警察庁は、この一連の失踪事件を広域重要「120号事件」に指定して捜査に乗り出した。さらに、上田の仕事を手伝っていた土木作業員の柏井耕さん(22)も、平成4年7月27日に「アルバイトに行く」と言って外出したまま行方不明になっていた。

 藤原三平さんと高橋サチ子さんは、上田に出資金を預けたが、上田はいつまでたっても繁殖所や訓練所の開設準備を行おうとしなかった。そのため2人は出資金を返すよう上田に迫り、殺害されたのである。

 志治信子さんは、高橋サチ子さんの殺害直後、車に隠していた高橋さんの遺体を偶然見つけたため殺害された。柏井耕さんは犬の面倒をみたときの手伝い料を催促して殺害された。

 上田宜範に殺害された志治信子さん、高橋サチ子さん、藤原三平さん、柏井耕さんの4人は、いずれも筋弛緩剤「サクシン」(塩化スキサメトニウム)を注射されて死亡、遺体は塩尻市の犬の繁殖訓練所の予定地の畑に埋められていた。

 警察はこの跡地を捜索し、次々と遺体を発見。さらにもう1人の犠牲者がいることが分かった。それはフリーターの瀬戸博さん(25)だった。瀬戸耕さんは、以前上田と同じ会社で働いていて、一緒に飲みに行くほどの仲だった。しかし瀬戸さんが自分に同性愛の傾向があることを上田に打ち明けると、上田は職場で「瀬戸はホモだ」と言いふらした。その後、上田は職場を変えたが、平成4年5月、犬を散歩させていると偶然瀬戸さんと出会った。このとき、瀬戸さんが上田に対して「悪口を言いふらしたな」と文句を言った。

 上田は「そんな覚えはない」と反発したが、殴り合いのけんかになりそうになった。上田はいったん謝ったが、瀬戸さんへの怒りは殺意に達していた。そして7月に、仲直りを口実に瀬戸さんを呼び出すと、睡眠薬を「下痢止め」と偽って飲ませ、筋弛緩剤を注射して殺害した。

 さらに上田は、これらの殺人に先立つ2年前に、静岡のパチンコ店の店員である北原豊仁さん(18)を絞殺していたと自供した。しかし北原さんの遺体が見つからず、また上田が自供を翻したために立件されていない。

 上田の実家は、大阪府八尾市の裕福な酒屋であった。上田の人生転落のきっかけは30歳の時、自分の会社の金7000万円を友人が使い込んだことだった。友人はそのまま失踪し、上田は大金を返せずに祖母の所有する株を売却して返済。このことで親から勘当され、上田は人間不信となり、性格が変わってしまった。

 もともと犬好きだった上田は、両親から準禁治産者として見捨てられてから、人間よりも犬と過ごす方が楽しいと思うようになった。犬好きなことから、獣医のところによく通っていた。ある日、獣医と雑談をしていると、「子犬が売れないので、殺してほしい」と頼みにきた客がいた。獣医が気軽に筋弛緩剤を注射すると、子犬は苦しむことなく死んだ。それに興味を抱いた上田は、口実をもうけて獣医から筋弛緩剤である「サクシン」をゆずってもらった。

 サクシンとは全身麻酔時に使う筋弛緩剤で、呼吸筋を麻痺させるため、人工呼吸器を使用しないと呼吸が停止して死亡する。致死量は筋肉注射では20mg程度で、静脈注射ではその半分の10mgであった。

 上田宜範は筋弛緩剤「サクシン」(塩化スキサメトニウム)を注射しても、体内に入ると分解されることから、殺人の証拠が残らないことを知っていた。そのため、獣医から70人分の致死量に相当する毒薬を入手したのだった。事件後、毒薬を渡した獣医は獣医師法違反で略式起訴され、罰金50万円が科せられている。

 かつて上田は警察犬訓練士から、仕事の内容を聞かされ、専門的知識はなかったが、畜犬業で金を儲けようとした。そこで長野県塩尻市内の農地を、犬の繁殖場と訓練所にするために借りた。施設の建設や運営には金がかかる。上田は「犬の訓練士」と称して、業界誌に広告を出しては出資者を集め、あるいは犬を散歩させている人に声をかけ訓練や繁殖の勧誘をしていた。

 上田は愛犬家を装ってはいたが、一方で商売にならない犬を平然と殺していた。さらに言えば、金銭が関与すれば人間でも、犬同様に殺害することに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。

 上田は公判で、自白は警察の暴行によるものと無罪を主張した。しかし平成10年3月20日、大阪地裁で死刑の判決が下った。上田は控訴したが棄却され、死刑が確定した。

 この事件に前後して、同様の愛犬家殺人事件が埼玉県でも起きている。

 平成7年1月5日、埼玉県警捜査一課は愛犬家ら5人が失踪した事件で、同県大里郡江南町の犬猫繁殖販売業・関根元(53)と関根の前妻の風間博子(37)を死体遺棄の疑いで逮捕した。2人は昭和59年頃からペットショップを始め、ペットブームに乗り、一時は年商1億円を超えていた。

 しかし景気の低迷とともに経営は悪化し、そのため珍しい大型犬を高く売って儲けようとした。「子犬が生まれたら高値で引き取る」、と利殖話を持ち掛けて犬を販売した。そして会社役員の川崎明男さん(39)に、数十万円の犬を1000万円で購入させた。しかし後に、川崎さんが法外な値段に気付き、売買の破棄を求めてきた。このトラブルから、平成5年4月20日、関根元は川崎さんに獣医からもらった硝酸ストリキニーネのカプセルを飲ませ毒殺した。

 ストリキニーネの作用は、主に脊髄における反射経路のシナプス後抑制機構の選択的遮断である。つまり骨格筋の緊張と反射興奮性の増大によって、死に至らせた。致死量は30〜100mgで、犬を安楽死させるためと言って、知り合いの獣医から 50人の致死量に相当するストリキニーネを入手していた。

 さらに、川崎さんの殺害を疑った遠藤安亘さん(51)が金銭をせびるようになると、関根は口止め料を払うといって遠藤さんを呼び出し、運転手和久井奨さん(21)もろとも殺害した。そのほか、金を借りていた主婦の関口光江さん(54)も同様の手口で殺害した。

 殺害後、いずれも遺体をドラム缶で焼却し、その骨や遺品を山に捨て、遺体そのものが見つからないようにした。証拠がなければ、捕まらないと思ったのである。

 この事件は、マスコミが先行して騒ぎ立て、そのため警察が動いたケースだった。裁判で風間は「死体遺棄を手伝っただけ」と主張したが、検察側は風間が積極的に殺害を促したとした。平成13年3月21日、関根と風間に死刑判決が下った。

 この2つの事件は「愛犬家連続殺人事件」と呼ばれたが、加害者はもちろんのこと、殺害された犠牲者たちも、犬への愛情より犬を利用した利殖を狙っていた。つまり愛犬家殺人事件ではなく、「愛犬を利用しての、金儲けをめぐる殺人事件」だった。ペットブームの意外な裏側をのぞかせる事件だった。