地下鉄サリン事件

地下鉄サリン事件 平成7年(1995年)

 平成7年3月20日、月曜日の朝のことである。東京の地下鉄はいつものように通勤客で混雑していた。そして午前8時すぎ、営団地下鉄の霞ヶ関駅に向かう、日比谷線、丸の内線、千代田線の3路線5本の満員車両で異様な臭気が生じた。これがいわゆる「地下鉄サリン事件」の始まりだった。

 乗客は目の痛み、頭痛、嘔気を感じ、ドアが開くと車内からホームへと雪崩れ込み、ホームから地上へ逃げようとしたが、呼吸困難から次々に倒れ込んだ。地下鉄職員は、乗客を助けようとして、サリンとは知らずに異臭物を排除しようとして倒れた。

 地下鉄サリン事件は、午前8時の通勤ラッシュ時を狙った犯罪であった。地下鉄構内には激しい刺激臭が溢(あふ)れ、駅周辺は騒然となった。最初の119番通報は、日比谷線・築地駅の駅員からだった。その数分後には茅場町、神谷町、小伝馬町、霞ヶ関、八丁堀、人形町、本郷三丁目、中野富士見町、中野坂上、新高円寺、荻窪、赤坂見附、国会議事堂前の駅からも、「地下鉄で多数の人が倒れている」と救急車の要請が東京消防庁に入った。通報で駆けつけた救急隊員や警察官はサリン事件とは知らず、防毒マスクもしないで、無防備のまま構内に飛び込んだ。駅はパニック状態となり、救急車が来ても搬送できないほど混乱していた。

 8時40分、東京都中央区の聖路加国際病院に最初の患者が搬入された。当時、院長であった日野原重明は、この異常事態に直ちに全職員に集結命令を出した。玄関には「大事件発生のため、外来診療を中止します」の看板を掲げさせ、通常の診療をすべて中止とした。聖路加国際病院では礼拝堂が広い病室に変わり、698人が治療を受け111人が入院となった。緊急事態のためカルテを作れず、患者の首に厚い紙をぶら下げ、カルテ代わりにした。聖路加国際病院以外の病院でも重症患者が廊下まで溢れた。

 病院の検査で、被害者のコリンエステラーゼが低値していたことにより、アトロピンの投与が行われた。当時、信州大医学部付属病院第三内科教授だった柳澤信夫はテレビで事件を知ると、前年6月に起きた松本サリン事件と症状が似ていることから、サリンの治療法を聖路加国際病院に電話で伝えた。柳澤医師のアドバイスを受け、サリンの解毒剤パムが投与されたが、被害者が多数だったため、都内の病院から解毒剤パムが集められた。しかしそれだけでは足らず、東海道新幹線沿線の病院にもパムの収集令が出された。

 警視庁は午前9時、特捜本部を設置。「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件」の捜査を開始したが、同時多発の状況から複数の者が毒劇物を仕掛けた組織的な無差別テロと断定した。東京都知事・鈴木俊一は陸上自衛隊に災害派遣を要請。自衛隊が毒ガス事件で派遣を要請されたのは初めてのことであった。自衛隊は、自衛隊中央病院などから医官21人、看護官19人を警察病院や聖路加国際病院など8病院に派遣した。

 事件発生から2時間後、警視庁は「毒ガスはサリン」と発表した。松本サリン事件では毒ガス特定に6日かかったが、地下鉄サリン事件は、松本サリン事件の経験から2時間でサリンを検出した。

 被害にあった地下鉄は、大手町、東京、銀座などのオフィス街を通っていた。そのため犠牲となった乗客はサラリーマンやOLが中心であった。警視庁は後に死者12人、重軽傷者約5500人と発表した。死者の中には、地下鉄職員2人も含まれていた。東京都心が、悪夢のような無差別テロ、不特定多数を狙った無差別殺人に襲われ、世界でも類を見ない化学兵器テロに世界中は衝撃を受けた。

 捜査本部は地下鉄サリン事件の犯人について、おおよその見当がついていた。前年の松本サリン事件と、その直後に起きた山梨県上九一色村での異臭騒ぎで見つかったサリンの副生成物が、今回検出された副生成物と一致していたからである。

 事件から2日後の22日、警視庁は目黒公証人役場事務長・仮谷清志さん(68)の拉致監禁死亡容疑で、上九一色村にあるオウム真理教の教団施設を強制捜査、大量の化学薬品を押収した。地下鉄サリン事件発生から約半月後の平成7年4月8日、事件の実行犯の1人である林郁夫(48)が別件で逮捕された。この林郁夫の自供によって事件の全貌(ぜんぼう)がほぼ明らかになった。

 林郁夫は、石川県内に潜んでいるところを逮捕され、石川県警から警視庁に身柄が移された。逮捕直後は黙秘していたが、まず元ピアニストの女性へ麻酔注射を打った事件について、組織防衛上やむを得なかったと容疑を認め、その後、医師としての良心を取り戻したのか、せきを切ったように地下鉄サリン事件の詳細を述べた。

 「オウム真理教の幹部5人が5手に分かれ、サリン入りのナイロンポリ袋を持って地下鉄に乗り込んだ。実行犯は乗車口の床にポリ袋を置き、先のとがった傘で数回刺し、すぐに地下鉄を降りて逃走した。捜査の攪乱(かくらん)を狙って、ポリ袋は対立する宗教団体の新聞でくるんでいた」と自白した。

 林郁夫は慶応大医学部出身の医師で、これまで医師として人の命を救うために仕事をしてきたが、多くの人を殺してしまったことに良心の呵責(かしゃく)を覚えたのである。林は、「オウム真理教には逆らえなかった」と語った。

 実行犯5人は、前日に下見をして、事件当日は山梨県上九一色村の教団施設・第6サティアンで傘の先で液体の入ったナイロン袋を突き破る練習をしてから現場に向かった。

 サリンは猛毒の神経ガスの一種で、その毒性は青酸カリの約500倍とされ、7トンを東京上空からまけば、首都圏すべてが死の街に変わるほどで、その威力は水爆に匹敵するといえた。

 松本智津夫(教祖名:麻原彰晃、40)は、サリンによる大量殺人を計画、上九一色村の教団施設内に数十億円をかけて大型プラントを建設。そのプラントで70トンのサリンを製造する予定だった。70トンのサリンは、日本人すべてを殺害できる量であったが、プラントでのサリン製造は失敗し、悪臭騒ぎが起きたためサリンは手作りになった。

 松本は、世紀末に起こるハルマゲドン(世界最終戦争)に備え、サリンの大量備蓄を命令。第6サティアンで「厚生省」の遠藤誠一(34)や「化学班」キャップ土谷正実(31)にサリン製造を指示し、教団への捜査の攪乱を狙って地下鉄サリン事件を実行した。実行犯は、幹部である村井秀夫(36)、林郁夫(48)、豊田亨(27)、横山真人(31)、広瀬健一(30)、林泰男(37)ら13人であった。

 当初は、東京・山手線にサリンを散布する計画だったが、オウム真理教は目黒公証人役場事務長・仮谷清志さんの拉致監禁死亡事件、坂本堤弁護士一家殺害事件によって、警察の大規模捜査に危機感を持っていた。そのため捜査を撹乱するため、警視庁などの官公庁が集まる霞ヶ関駅を通る地下鉄での無差別大量殺人を引き起こしたのである。

 5月15日、仮谷さん拉致監禁死亡事件の監禁容疑で特別手配していたオウム真理教・井上嘉浩(25)ら4人が東京都秋川市(現あきる野市)で逮捕された。これを機に翌16日には、警視庁は地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で、オウム真理教幹部ら41人の一斉逮捕に踏み切った。さらに上九一色村の第6サティアンの隠し部屋に横たわっていた松本智津夫を殺人容疑で逮捕した。

 地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本堤弁護士一家殺害など、オウム真理教による一連の事件で計189人が起訴され、4人の無期懲役、7人の死刑が確定している。松本智津夫は平成18年9月15日、最高裁判所への特別抗告が棄却され死刑判決が確定している。

 仮谷さん監禁致死事件の平田信(43)や、地下鉄サリン事件の高橋克也(49)、菊地直子(36)らは今も逃亡している。この事件を契機にサリン防止法(サリン等による人身被害の防止に関する法律)が施行され、サリン等の製造、所持には7年以下の懲役、発散させた場合は無期懲役または2年以上の懲役となった。

 地下鉄サリン事件から10年以上が経っているが、現在でも後遺症に悩まされている被害者が多い。後遺症は寝たきりからPTSD(心的外傷後ストレス障害)までさまざまであるが、被害者への公的支援はほとんどなされていない。教団による損害賠償金は約3割にとどまり、被害者が賠償金を全額受け取れる可能性は低い。そのため国が未払い分を見舞金として払うことが検討されている。