向井千秋さん宇宙へ 

向井千秋さん宇宙へ 平成6年(1994年)

 平成6年7月8日、向井千秋さん(42)はオレンジ色の宇宙服に着替えると、スペースシャトル・コロンビア号(104t)に乗り込んだ。コロンビア号にはロバート・カバナ船長(45)ら飛行士6人が乗っていた。向井さんは日本人女性として最初の宇宙飛行士だった。

 午後0時43分、米国フロリダ州のケネディ宇宙センターから、コロンビア号が炎とともに打ち上げられ、青空に向かって1筋の白煙を残して消えていった。この年は、米国のアポロ11号が月に人間を送りこんでからちょうど25年目であった。

 このとき人々の心の中には、昭和61年1月28日のチャレンジャー号の記憶が残っていた。それは打ち上げ直後に空中爆発を起こし、乗員7人全員が死亡した事故だった。そのため、人々は打ち上げの瞬間をかたずをのんで見守っていた。向井さんの夫・慶応大病院の医師向井万起男さん(47)は、ケネディ宇宙センターの屋上から無事を祈っていた。

 打ち上げから約2分後、コロンビア号は大西洋の約45キロ上空で補助ロケットを切り離し、軌道を修正して地球を約90分で1周する飛行に移った。地球から約300キロの軌道を、15日間で220周する予定だった。打ち上げから2時間50分後、向井さんの元気な第一声がジョンソン宇宙センターの飛行管制センターに入った。この第一声から約40分後、赤いポロシャツと青い短パン姿で実験の準備をしている向井さんの姿がテレビに映し出された。

 向井さんは15日間の宇宙生活で、日本など13カ国が提案した82の実験「第二次国際微小重力実験室(IML2)」を行った。実験内容は、金魚を使って宇宙酔いの仕組みを解明すること、メダカやイモリを無重力の状態で産卵させ、孵化させることなどであった。また新しい材料づくりの実験、無重力での血液の流れと心臓機能の変化をみる人体観測が行われた。人体観測では、無重力における身体の調節機構を血圧計、心電図、心臓エコーなどを用いて調べられた。

 滞在2日目の日本時間10日午前8時、向井さんは宇宙から見た地球の印象を「暗黒の宇宙で、雲の薄いベールをかぶった地球が回る姿は、本当に美しい」と日本語で伝えてきた。このとき、ナポリのサミットに出席していた河野洋平副総理、東京にいる科学技術庁の田中真紀子長官と衛星回線で12分間の会談が行われた。

 田中真紀子長官から「地球を観察しましたか」と質問され、「打ち上げ30分後に1、2分間、ほとんど働いていたので見てません」。「体調は?」と聞かれ、「忙しいけど元気です」と答えた。河野副総理から「外から地球を見た感じは」と聞かれると、「壮大で美しいの一言に尽きます。皆さんにぜひ見せてあげたい。こんな素晴らしい地球に生まれたことを誇りに思っています」と語った。実は、この会談は村山富市首相が出席する予定だったが、体調を崩したため、河野副総理が話すことになった。向井さんは「村山総理のご回復をお祈りします」と医師としての気遣いをみせた。

 またクリントン米大統領からは「宇宙計画は世界の平和と協力の象徴。われわれのシャトルに、日本初の女性宇宙飛行士が乗っているのを誇りに思う」とのメッセージが届き、「その言葉を胸に頑張ります」と向井さんは答えた。

 郷里の群馬の中学生には、「天女になったような感じです」と宇宙の感想を語り、子供たちに大きな夢を与えてくれた。そして15日後の23日、宇宙での実験を終え、地球に帰還することになった。向井さんの宇宙滞在時間は14日と17時間55分で、女性の宇宙最長滞在記録を更新した。

 無重力から重力のある地球への帰還である。無重力では体内血液量が減少するため、地球への帰還後に宇宙飛行士の半数が起立性低血圧をきたした。それを防止するため、塩水1Lを飲んでの帰還であった。

 平成6年7月23日(現地時間)、日本人初の女性宇宙飛行士として向井千秋さんが地球へ戻ってきた。向井さんの搭乗するコロンビア号が、米国フロリダ州のケネディ宇宙センターの滑走路に着陸すると、パラシュートが開き機体はゆっくりと止まった。家族や多くの研究者仲間が拍手で出迎えた。

 向井さんの出身地である群馬県館林市では、子ども科学館に約2800人が集まり、大型テレビの前でコロンビア号の帰還を見守っていた。そして、無事に着陸すると拍手とバンザイが起こり、50発の祝福の花火が打ち上げられた。

 向井千秋(旧姓、内藤)さんは、昭和27年に群馬県館林市のかばん屋の長女として生まれている。向井さんが9歳の時、弟が大腿部の一部が壊死するペルテス病に冒されたこともあり、10歳頃から医師になろうと決意していた。中学3年で単身上京、慶応女子高から慶応大医学部に進学した。大学時代はスキーに熱中し、医学部東日本大会で優勝している。また酒に関しては男顔負けの酒豪で、酒一升を飲み干した武勇伝が残されている。

 医学部を卒業すると、心臓血管外科を専攻し、寝る時間も惜しんで学んだ。昭和56年、俳優の石原裕次郎が解離性大動脈瘤で慶応大病院に入院した時には、担当医の1人だった。心臓血管外科医の勤務は厳しかったが、きびきびとした動作から、裕次郎から「カンフーねえちゃん」とあだ名をつけられた。

 向井さんが宇宙飛行士になろうとしたのは、昭和58年12月、宇宙開発事業団が、宇宙飛行士を募集しているのを新聞で知ったことがきっかけであった。昭和60年8月、533人の応募者から北海道大工学部助教授の毛利衛さん(37)、NASAルイス研究所の研究員・土井隆雄 さん(30)、そして慶応大医学部助手の向井さん(33)が選ばれた。

 向井さんは、日本初の宇宙飛行士3人の1人に選ばれると、NASAに留学して訓練を重ねた。そして平成4年、「第二次国際微小重力実験室(IML2)」の乗組員に選ばれた。平成6年の宇宙飛行は、宇宙飛行士の候補になってから9年目のことであった。

 向井さんは日本に帰国して連日各地で講演をして、子どもたちに大きな夢を与えた。さらに、平成10年10月29日から11月7日にかけ、史上最高齢の宇宙飛行士ジョン・グレン上院議員(77)とともに、2度目の宇宙飛行をしている。この2度目の飛行中に「宙がえり 何度もできる 無重力」という短歌の上の句を詠み、これに続く下の句を募集。下の句には約14万5000首の応募があった。一般の部で選ばれたのは、東京都国分寺市の坂本一郎さん(68)の「湯舟でくるり わが子の宇宙」だった。また「乗せてあげたい寝たきりの父」などが入選作となった。

 日本人の宇宙飛行士としては、平成4年9月12から20日に宇宙飛行を行い、「宇宙からは国境線は見えなかった」の言葉を残した毛利衛さんが初めてと思われている。しかし日本人で最初に宇宙へ飛んだのは、TBS(東京放送)の記者・秋山豊寛さんであった。秋山さんは、最初の日本人宇宙飛行士となったが、あまり話題になっていない。秋山さんは国際基督教大を卒業後、昭和41年にTBSへ入社。ロンドン支局やワシントン支局などの特派員を歴任していた。TBSが日本人宇宙飛行士搭乗を、推定15億円の契約金でソビエト連邦宇宙総局と調印。平成2年12月2日、ソ連のバイコヌール宇宙基地より宇宙船ソユーズTM-11号に乗って、秋山さんは宇宙へ飛び立った。

 TBSは打ち上げから長時間にわたる特別番組を生放送した。秋山さんの宇宙からの第一声が「これ、本番ですか?」だった。乗組員兼ジャーナリストとして日常生活をリポートし、カエルの無重力実験、自分の睡眠実験などを行ったが、宇宙飛行士というよりも「お客さん」のイメージだった。

 8日後の12月10日に帰還するが、帰還直後に「お酒が飲みたい。たばこが吸いたい」と話した。このように秋山さんは酒もたばこもやる普通のおじさんだった。帰国後、TBS報道局次長などを歴任し、平成7年に退職している。退職したのは、宇宙飛行士だったことから会社にいづらくなったこと、金や権力、名声など小さいことに興味がなくなったからで、退社すると福島県で無農薬農業を行った。日本で最初の宇宙飛行士は秋山豊寛記者であるが、商品化された飛行士の哀れさを感じてしまう。