初の脳死臓器移植実施

初の脳死臓器移植実施 平成11年(1999年)

 平成9年6月17日、国会で臓器移植法が成立し、脳死患者からの臓器移植への道が開かれることになった。臓器移植法案は、平成6年に国会に提出されたが審議が延々と継続され、いったんは廃案になるほどの紆余曲折があった。これは死の定義について、全員が納得できる解答が得られなかったからである。

 従来から、死の判定は呼吸や心臓の停止、瞳孔の拡大などを参考に判断されてきたが、法的な死の定義はなかった。そのため「脳死を死とするのか、心臓死を死とするのか」の議論が医療関係者を中心になされてきた。脳死を死と定義すれば、まだ動いている心臓を摘出して移植することが可能であった。脳死は全死亡者の1%以下であるが、これまで心臓死を死とみなしてきたことに加え、脳死の判定基準が絶対に正確とは言えないとの反対論があった。このように「ひとの死の定義をめぐる脳死、心臓死」については、死生論を含めた議論が平行線のまま続いていた。

 臓器移植法は「臓器提供の場合に限り、本人の意思と家族の同意を条件に、脳死を死とする」と、条件付きで成立したのであった。本人の意思とは「臓器を提供する意思を書面により表示している場合」で、具体的には臓器提供意思表示カード(ドナーカード)に記入していることが必要だった。また本人が承諾のドナーカードを持っていても、臓器提供には家族の同意が必要で、さらに15歳未満の小児の臓器提供は禁止されていたため、小児の心臓移植は日本では不可能であった。欧米では本人の意思が不明でも、家族の承諾があれば大人だけでなく小児でも脳死移植が可能で、この点が日本と欧米では違っていた。

 臓器移植法案が成立して1年が経過したが、脳死による臓器移植は行われず、欧米との差は広がる一方であった。2600万枚のドナーカードの配布、公共広告機構などによる宣伝もむなしく感じられていた。しかし法案施行から1年4カ月後、脳死臓器移植が初めて行われるというニュースが突然飛び込んできた。

 臓器の提供患者は高知県高知市に住む40代の女性だった。この女性患者はくも膜下出血のため2月22日に高知赤十字病院に運ばれ脳死状態になっていた。本人が臓器提供を示す意思表示カードを持っていたことから、臓器移植法に基づく脳死判定が行われた。

 脳死とは大脳と小脳だけでなく脳幹の機能も停止し、回復不可能で、呼吸ができないため人工呼吸器を必要とする状態である。これに対し植物人間とは大脳と小脳の機能は停止しているが、脳幹は生きており呼吸も自立している状態を示す。脳死の判定基準は<1>深い昏睡<2>自発呼吸の喪失<3>瞳孔固定<4>脳幹反射の消失<5>平たんな脳波の5項目を満たし、6時間以上の経過で変化がないことであった。

 臓器移植法に基づく日本初の臓器移植は、移植医療の新たなスタートを意味していたが、脳死判定の手順について国のマニュアルがなかった。また情報公開のあり方に問題があった。2月22日に高知赤十字病院に運ばれた患者は自発呼吸がなく、25日には臨床的に脳死と診断された。しかし同日に行われた1回目の脳死判定で「脳波が平坦でないことから脳死とはいえない」とされ、翌26日の再度の脳死の診断で、脳波の平坦が確認されたのであった。脳波が平坦と言葉で表現するのは簡単であるが、脳波はノイズを拾うため平坦と言い切るには勇気があった。さらに無呼吸テストを脳波測定前に行うなど、判定手順に混乱があった。

 高知赤十字病院には大勢のマスコミが津波のように押し寄せ、脳死移植第1号をめぐって激しい報道合戦が行われた。臓器提供者の家族構成などのプライバシーまでマスコミが報道したため、家族の希望により最終的な脳死判定は公表しないことになった。病院の会議室に80人の記者が待機していたが、病院側は沈黙を守ることにした。一方、臓器の摘出や搬送、臓器移植を受ける患者の選択は順調に行われ、受け入れる病院の準備は万全であった。

 高知赤十字病院で脳死判定後に心臓を摘出したのは大阪大医学部付属病院の福嶌教偉(ふくしまのりひで)医師で、同日中にクーラーボックスに入れられた心臓がヘリで大阪大病院に運ばれ、同医師を中心に心臓移植が行われた。大阪大は手術の一部始終をテレビモニターで報道陣に公開した。この公開は患者の了解を得て、移植手術の透明性を高めるためのものだった。心臓の提供を受けた患者は、「臓器を提供いただいた本人および家族の善意に、大変感謝しています」と述べた。

 さらに同日、提供された肝臓が信州大医学部付属病院で移植され、翌3月1日には東北大医学部付属病院と国立長崎中央病院で腎臓移植が、高知医科大で角膜が移植された。心臓移植は31年前の昭和43年に札幌医科大で行われて以来、日本で2例目であった。心臓移植の経過は良好と公表され、足踏みしていた移植医療が新たな一歩を踏み出すことになった。

 高知県の臓器移植を契機に、慶応大病院(同年5月12日)、宮城県の古川市立病院(同年6月13日)、大阪府吹田市の府立千里救命救急センター(同年6月24日)と、脳死からの臓器提供が相次いだ。しかし臓器移植法が成立してから11年間で脳死移植は81例にすぎず、年間2000人以上の患者が待機中に亡くなっている。臓器移植を希望する患者は1万2000人で、これまで500人以上が海外で臓器移植を受けている。国際移植学会は「外国人が地元国民の移植の機会を奪うことは不公平で、正義に反している」と声明を出し、英国、ドイツ、オーストラリアは日本人への臓器移植を中止し、米国では外国人の臓器移植を5%以内とした。

 人口100万人当たりの臓器移植は、スペイン34.3人、米国26.6人に対し日本はわずか0.8人である。脳死移植を希望する患者は、脳死の患者を待つという悲しい現実があるが、心臓移植の5年生存率は9割を超え保険も適用されている。

 日本人の臓器移植は極端に少ないが、国民の44%が「脳死になったら臓器を提供したい」と希望している。しかしドナーカードの普及率は8%と低いのは、ドナーカードの入手方法を知らないからで、これでは脳死移植のシステムが機能していないと言われても反論はできない。臓器提供はドナーカードより、本人の意思を健康保険証に記載すればすむことで、臓器提供を遺言ととらえれば、自己決定権に家族が反対するのはおかしなことである。また医師不足の病院にとっては、外来や手術の業務の中断、マスコミへの対策、許されない脳死判定ミスなどが大きな負担となっている。

 しかし平成21年7月に臓器移植法が改正され、臓器提供の条件が緩和された。この改正法は平成22年7月17日から施行され、本人が「事前に書面で拒否の意思表示」をしていない限り、親族の同意があれば臓器提供を行うことができるようになった。また提供年齢の制限は撤廃され子供でも臓器を提供でき、親族に臓器を優先的に提供できるようになった。この改正案についてのマスコミ報道はなぜか少なく、そのため国民的合意を素通りして法案が成立した印象が強い。法案改正までの過程は別として、それまで13年間で86例だった臓器移植は、改正臓器移植法によって2か月で8例行われ、臓器移植は飛躍的に伸びることになった。