人食いバクテリア

人食いバクテリア  平成6年(1994年)

 平成6年5月6日、英国の「インディペンデント紙」が人間の筋肉や血管などを急激に破壊し、壊死性筋膜炎を起こす、極めて致死率の高い感染症について報道した。この感染症は、しばしばヒトの皮膚などにみられるA群溶連菌(溶血性連鎖球菌)による劇症タイプであった。しかし「人食いバクテリア」というセンセーショナルな名前から、わが国でも大騒ぎになった。インディペンデント紙は、半年間に216例の患者が発症し39人が死亡したと報道。さらに、患者の腐った皮膚の写真を掲載し、その恐ろしさを強調した。

 「人食いバクテリア」を引き起こすA群溶連菌はごくありふれた菌である。咽頭炎や扁桃炎、化膿性皮膚炎を引き起こす化膿性連鎖球菌の一種で、かつては猩紅熱やリウマチ熱などの起因菌として知られていた。このA群溶連菌は抗生剤がよく効くことから、先進国では重篤な感染や合併症は激減し、深刻な感染を引き起こすことはないと思われていた。また多くの人たちは小児期に感染して免疫を持っていた。

 そのため重要視されず、忘れ去られていた細菌であった。たとえ感染しても咽頭炎や中耳炎を起こす程度と軽視されていた。しかしこのA群溶連菌がなぜか凶暴化したのだった。そして「人食いバクテリア」の起因菌として重篤な症例報告が相次いだ。

 「人食いバクテリア(劇症型A群溶連菌)」による感染の特徴は、高熱が出て筋肉に激痛が走り、筋肉が急速に腐ることである。1時間に2.5cmの速さで腐食が進み、細菌が筋肉組織や皮下脂肪を食べるように進行した。適切な治療を行わないと、多臓器不全を起こし24時間以内に死亡した。症状が急速に悪化するため、突然死に近い状態となった。

 その診断は血液や筋膜からA群溶連菌を検出することであるが、そのような時間的余裕はなかった。「人食いバクテリア」を疑ったら、腎不全やショック状態、肝機能異常などの症状をきたす前に、抗生剤の投与をすぐに開始し、いかに早く壊死した組織を取り除くかである。数時間治療が遅れただけで致死率に差がみられた。注意すべきは発熱と筋肉痛といった軽い症状から、風邪と診断されることが多いことである。そして時間単位で急速に進行するので、早期治療が遅れてしまうことがあった。

 「人食いバクテリア」は、英国でセンセーショナルに報道されたが、英国だけでなく全世界で報告されている。米国では、年間約2000人が発症し、その30%が死亡している。日本では平成4年6月、千葉県旭市の旭中央病院麻酔科部長・清水可方らの報告が初例である。清水らは、軟部組織の壊死と多臓器不全で死亡した患者からA群溶連菌を分離し、本邦初の劇症型A群溶連菌感染症(toxic shock like syndrome:TSLS)を報告した。旭中央病院では、初例から約2年の間に10例の「人食いバクテリア」を経験し、患者の死亡率80%、平均4.4日で死亡したと報告している。

 日本では、平成4年から平成9年の間に約100人が「人食いバクテリア」に感染し、30人が死亡。通常のA群溶連菌感染症は小児に多いが、「人食いバクテリア」を引き起こす劇症型A群溶連菌感染症は中高齢者に多い特徴があった。

 このA群溶連菌というごくありふれた菌が、なぜ劇症化したのか不明である。A群溶連菌は猩紅熱の原因菌であったが、猩紅熱は敗血症を引き起こさないのに、「人食いバクテリア」は敗血症を起こした。また猩紅熱は他人に伝染するが、「人食いバクテリア」は伝染しないのが特徴で、2次感染の心配がないことが何よりの救いであった。猩紅熱も「人食いバクテリア」も同じA群溶連菌の感染症であるが、猩紅熱が激減する一方で、「人食いバクテリア」が注目された。

 A群溶連菌が凶暴化したメカニズムは、謎のままである。毒性の強い変異株が突然変異で生じた可能性が検討されたが証明されていない。患者の免疫異常も調べられたが、明確な異常は見つかっていない。

 「人食いバクテリア」は、致死率の高い疾患とされていたが、現在では抗生剤の適切な治療によって救命率は向上している。「人食いバクテリア」は散発的で、その患者数も減少している。「人食いバクテリア」の原因菌としてA群溶連菌が有名になったが、壊死性筋膜炎は病原性の低いビブリオ菌やアエロモナス菌によっても起こる。海水に漬かった後に、壊死性筋膜炎が起きればビブリオ菌が原因で、淡水に漬かってから壊死性筋膜炎が起きればアエロモナス菌が原因である。ビブリオ菌とアエロモナス菌による壊死性筋膜炎の頻度は低いが、A群溶連菌よりも重篤で、海水・淡水中の菌が傷口から感染することによる。感染した手足に血液の混じった水疱ができ、筋肉が急速に壊死し、感染が心筋に及べば致命的となる。致死率は約70%で、これまで日本で100人以上の死亡例が報告されている。