京北病院安楽死事件

京北病院安楽死事件 平成8年(1996年)

 平成8年6月4日、京北町立・国保京北病院のT病院長(58)が、入院中の末期がん患者に筋弛緩剤を投与し、安楽死させていたことが報道された。この安楽死事件は、京都府警に「京北病院で末期がん患者が死亡したが、安楽死させられたらしい」という匿名の電話があったことから発覚した。

 この安楽死事件が起きたのは、同年4月27日のことだった。患者は、T病院長と20年来の知り合いだった48歳の男性で、胃がんがすでに肝臓に転移していた。T病院長は苦しむ患者にモルヒネと鎮静剤を投与したが効果がなく、そのため安楽死を考え「筋弛緩剤を持ってきてくれ」と看護師に命じた。

 看護師はT院長の言葉に驚き躊躇(ちゅうちょ)したが、T院長が怒鳴るように命じたため、筋弛緩剤レラキシン200mgを生理食塩水100mLに溶かし、「これ以上できません」と看護師は点滴を拒否した。そのためT院長が点滴を行い、患者はその数分後に死亡した。

 T院長は報道陣に対し、「生から死へのスムーズな移行が医師の務めである」と答え、この事件をきっかけに、安楽死の法整備の議論をしてほしいと訴えた。T院長に加害者の意識はなく、逆に安楽死の是非を堂々と世に問う発言を繰り返した。

 T院長は町役場で記者会見し、10年前から末期がん患者数人を安楽死させていたことを明らかにした。さらにT院長は、末期がんに苦しむ患者への医療の在り方を世に問う姿勢をみせた。しかしT院長のこの言動は、記者会見のその日のうちに急変することになった。記者会見からしばらくすると、T院長はそれまでの発言を否定するようにマスコミを避け、当初の強気の発言だけが残されてしまった。そして時間の経過とともに、この安楽死事件の雲行きが変わっていった。

 まず看護師、遺族らが「患者に苦しんでいる様子はなかった」と証言。またT院長は患者の主治医ではなく、主治医に相談なく単独で安楽死を選択していたことが分かった。主治医は、もし病室にいたら絶対に止めさせていたと発言した。

 さらに患者本人へのがんの告知はなされておらず、家族への事前の説明もなかった。そのためT院長の当初の発言に疑惑が生じてきた。この騒動のなかで、T院長は「現場に早く復帰して地域医療に取り組みたい」と表明したが、京都府警特捜班はT院長の自宅と病院を殺人容疑で家宅捜索を行った。6月22日、京北町はT院長に辞任を要請した。

 町民たちはT院長の復帰を望む署名運動を行ったが、看護職員30人全員が「もし院長が復帰したら辞職する」と町長に表明。そして9月8日にT院長の解任が決定した。

 この京北病院安楽死事件は日本中の注目を集めたが、この事件は誰も予想しない結末を迎えた。それまで記者会見で安楽死を強調していたT院長が発言を変え、筋弛緩剤の投与は「顔面のけいれんや患者の苦悶(くもん)の表情を和らげるため」との申立書を警察に提出したのだった。筋弛緩剤を投与すれば、患者が死亡するのは医師の常識で、T院長はそれを十分に認識していたはずである。それなのに筋弛緩剤の投与は安楽死が目的ではなかったと発言を変えたのだった。

 京都府警は殺人容疑でT院長を書類送検とした。しかし平成9年12月12日、京都地検は死因との関連性や殺意の立証が困難としてT前院長を不起訴処分にした。T院長を不起訴処分にした地検の判断は、文字通り証拠不十分で立件を断念したのではなく、証拠不十分を理由に安楽死を法律で裁くことを回避したといえる。この地検の判断によって、京北病院事件におけるT院長の刑事責任は不問にされたが、それに異を唱える者がいなかったことが地検の英断と思われる。