ベロテック騒動

ベロテック騒動 平成9年(1997年)

 気管支喘息の病態は「気管支の可逆性の収縮による呼吸困難」で、治療薬としては気管支拡張剤であるキサンチン誘導体とβ2刺激薬が用いられてきた。またβ2刺激薬の中でも、より効果的で副作用が少ないことから、フェノテロール吸入剤(商品名:ベロテックエロゾル)の定期吸入が最も優れた喘息の治療と推奨されていた。

 しかし平成元年、ニュージーランドでフェノテロールの販売量と喘息死亡率が一致するとの疫学調査から、フェノテロールの副作用による喘息死を疑う論文が「ランセット」(英国の医学誌)に掲載された。

 この論文を重要視したニュージーランド政府は、平成2年からフェノテロールを保険給付の対象外として使用を制限した。そして平成7年には、フェノテロールの販売量の低下とともに喘息死亡率が低下したことが報告された。

 β2刺激薬は、気管支平滑筋の交感神経の「β2受容体」を刺激して、気管支を拡張させる作用がある。その一方で心臓刺激作用や心毒性を持つとされ、心筋障害作用が喘息患者の死亡者を増加させていると推測された。

 しかしβ2刺激薬が喘息死の原因とする疫学調査は本当だったのだろうか。β2刺激薬(フェノテロール)の有害説がいわれ始めた翌平成2年、英国胸部学会が「気管支喘息は気道の狭窄を来すが、その病態の本質は気管の慢性炎症であり、喘息の治療はステロイド剤の吸入を第1選択薬とする」とする喘息の治療ガイドラインを発表。翌3年には、米国国立衛生研究所(NIH)も「喘息の原因は、慢性の気道炎症」と同様の見解を示した。

 このことから気道の炎症を抑えるステロイド剤の吸入が気管支喘息の治療として推奨され、徐々に浸透するようになった。β2刺激薬はそれまで定期的に使用されてきたが、新しい治療ガイドラインでは原則として屯用に位置付けられた。

 このように気管支喘息の病態が「気管支の狭窄から炎症」に、治療が「β2刺激薬からステロイド吸入」に徐々に変わった時期と、フェノテロールが問題視された疫学調査の時期が重なっていたため、統計学的にフェノテロールの悪玉説を信じることができないのである。喘息死亡率が下がったとするニュージーランドの統計は、フェノテロールの販売量が減っただけでなく、ステロイド治療が徐々に普及し始めたためと解釈できたからである。さらに同時期から、ピークフローメーターも普及しはじめ、軽い喘息発作を発見でき、発作の起きやすい時期や時間帯などを把握しやすくなった。このように喘息の管理がしやすくなってきた時期と重なっていたのである。

 フェノテロールは即効性があり、かつ強力だったことから重症患者で使用者が多かった。さらに患者自身がその即効性を実感していたため、その効果に過剰に依存していた。喘息発作を起こしてもフェノテロールの効果に期待し、悪化したまま受診が遅れ、喘息死を招いたとも考えられた。

 喘息発作は突然起きるので、発作が改善しないまま呼吸困難に陥ることがある。特に1人暮らしの患者にとっては、病院へ行けないほどの発作時にはフェノテロールに頼らざるを得なかった。喘息発作を知る患者にとって、フェノテロールは命綱ともいえる薬剤であった。

 平成9年3月7日、フェノテロールの製造元である日本ベーリンガーインゲルハイム社は、フェノテロールの過剰な使用を避けるようにとの添付文書を各病院に配布した。その内容は、フェノテロールの過剰投与が喘息死を引き起こす可能性があるという緊急安全性情報であった。マスコミはこの緊急安全性情報に飛び付き、β2刺激薬(フェノテロール)を第2の薬害エイズのごとく扱った。平成9年3月22日、NHKおよび新聞各社はフェノテロールの過剰投与により喘息死が増えていると報道した。

 また同年の「文藝春秋」6月号で、ジャーナリストの櫻井よしこがこの問題を取り上げている。その内容は患者の声を冷静に取り上げているが、「喘息患者が次々に死んでゆく」との刺激的な題名から想像できるように、「フェノテロールによって喘息死が起きるから、発売を中止せよ」とのマスコミ論調に追従するものであった。

 平成9年5月19日、厚生省は日本ベーリンガーインゲルハイム社が3月に出した添付文書と同じ内容の緊急安全性情報を再度出した。民間の薬害オンブズパースン会議は、平成7、8年の喘息死亡者数は平均30.0人/月、平成9年1〜5月の喘息死亡者数は21.6人/月、6〜12月は18.1人/月と発表。緊急安全性情報が出た後に、死亡者数が大幅に減っているとして、β2刺激薬フェノテロールの悪玉説を強調した。

 しかし厚生省が毎年発表している死因別統計をみると、喘息死亡者は平成7年以降、平成11年を例外として毎年減少しており、厚生省の喘息死亡率と彼らの統計は違っている。厚生省の統計は2年遅れであるが、この違いを誰も指摘していない。

 平成7年以降、喘息死亡率の上昇は平成11年だけである。このことはフェノテロールの危険性が強調されたため、患者がその使用を控え、死亡率が上昇したと解釈できる。昭和大の飯倉洋治教授は「マウスを用いた実験で、フェノテロールの危険性が証明された」とマスコミの取材で述べたが、それは患者に用いる数百倍の量のフェノテロールをマウスに与えた実験結果であった。

 フェノテロールはβ2刺激薬の中で最も多く使用され、数百億円の売り上げがあった。しかし緊急安全性情報が出された平成9年に売り上げが激減、さらにフロンガス(現在は特定フロンに代わっている)の問題が重なり、現在では数億円程度の売り上げになっている。

 喘息治療の原則は、現在ステロイド剤の吸入が第一選択剤であるが、中程度以上の患者にはβ2刺激薬の吸入が推奨され、重症患者の治療にはβ2刺激薬が必須とされている。喘息死は喘息症状の悪化によるもので、β2刺激薬の心臓刺激作用や心毒性は弱いとする専門家が多い。

 β2刺激薬(フェノテロール)が多くの喘息患者を救ってきたことは事実である。また現在も使用されていて、今後も多くの喘息患者を救うであろう。今回の「ベロテック騒動」は、喘息治療に無知なマスコミ、目立ちたがり屋の学者、さらにはデータの誤用が現場を混乱させた印象が強い。

 たとえβ2刺激薬(フェノテロール)の過剰投与が喘息死に関連していたとしても、メーカーがその可能性を指摘し、適正使用を医師が指導しているのだから、過剰乱用は患者の使用者責任といえる。また多くのマスコミが主張したように、β2刺激薬(フェノテロール)の販売を中止していたら、多くの患者が死んでいったことであったろう。

 厚生省に販売中止要求したマスコミや薬害オンブズパースンなどの行為は「ウイスキーの一気飲みは危険と指摘し、ウイスキーそのものの製造販売を中止せよ」と叫んでいるのと同じではないだろうか。β2刺激薬(フェノテロール)の販売中止をせまった彼らの罪の方は大きいと思われる。

 マスコミは、喘息患者の呼吸苦の現状を知らない。喘息患者はマスコミのベロテック販売中止を求める行動に対して、むしろ困惑の中で沈黙し、冷ややかに受け止めていた。