ニッソー事件

ニッソー事件 平成11年(1999年) 

 平成11年12月、フィリピンのマニラ南港で大量の医療廃棄物が混入した危険なゴミが入ったコンテナが見つかった。この事件の発見者は、港湾視察中のエストラダ大統領だった。エストラダ大統領は積み置かれた大量のコンテナを見つけ、コンテナの中身を調査するように指示、すると詰め込まれていたのは1メートル角に圧縮され、黒いビニールに包まれたサイコロ状のものだった。サイコロには木くずや建設廃材とともに、プラスチック、注射器、酸素ボンベ、紙おむつ、包帯など病院から出された医療廃棄物が入っていた。日本での輸出前の積荷報告書にはリサイクル用古紙と書かれていたが、医療廃棄物を含んでいた。

 コンテナが放置されていたのは、現地の輸入業者と税関との関税のトラブルによるものだった。業者は税関幹部から高額なわいろを要求され、それに応じなかったためコンテナが数カ月放置されていた。フィリピン社会ではリベートが慣習化していて、この失敗がなければこの事件は闇に消えていた。

 医療廃棄物とは医療機関から出された廃棄物のことで、血液で汚染された注射針、脱脂綿、ガーゼなどが含まれて、B型肝炎やエイズ感染の恐れがあった。日本で医療廃棄物が注目されたのは、清掃関係者や子供が注射針で手を刺す事件があったからであるが、環境問題として大きく取り上げられたのは、このニッソー事件がきっかけであった。

 フィリピンにゴミを輸出していたのは、栃木県小山市の産業廃棄物処理業者「ニッソー」(伊東廣美社長)であった。フィリピンの新聞は「フィリピンは日本のゴミ捨て場じゃない」と大見出しで報道し、反日感情をあおることになった。さらにコンテナが輸出された時期が、東海村のウラン加工施設で起きた臨界事故から2週間後だったため、放射性廃棄物との憶測から放射能測定まで行われた。コンテナは計122個、2200トンで、この量はマニラ首都圏(人口約1000万人)が1日に出すゴミの半分に相当していた。この悪質な事件によって日本は国際的に恥をさらすことになった。

 ちょうどこの事件が発覚したとき、スイスのバーゼルで「第5回バーゼル条約締約国会議」が開催されていて、有害廃棄物の輸出入に伴う損害賠償が議論されていた。そして12月13日、フィリピン政府はバーゼル条約に違反するとして、日本にゴミの回収を要求。そのため日本政府は国費でゴミを持ち帰ることになり、マニラ南港から日本へ「ゴミの強制送還」となった。平成12年1月11日、船に乗せられた廃棄物コンテナ122個が東京港の大井ふ頭に陸揚げされた。ニッソーは倒産していたので、政府がゴミを処分することになり、運送費など2億8000万円の税金が使われた。輸出されたゴミの中には、東邦大大森病院の名前が書かれたものが混入していた。

 平成12年5月15日、栃木と長野両県警の合同捜査本部は、産業廃棄物処理業者「ニッソー」の伊東廣美社長(50)を外為法違反(無承認輸出)の疑いで逮捕した。しかし伊東社長は「ゴミではなく有価物」「国内では多くの業者がやっている」と罪の意識はなかった。さらに長野、岩手、茨城、千葉、栃木県の山中に計3万4000トンのゴミを放置していた。「ニッソー」は1都7県の22業者から約4万トンのゴミを買い集め、圧縮、こん包して不法投棄していて、ニッソーの伊東社長は懲役4年、罰金500万円の実刑判決を受けた。

 当時、医療廃棄物を排出する医療機関は約14万カ所で、医療廃棄物は「特別管理廃棄物」として、免許を持つ産廃業者が医療機関からの委託を受けて焼却処分にしていたが、その実態は把握されていなかった。そのため厚生労働省は、廃棄物の処理及び清掃に関する法律を改正し、医療廃棄物の管理を強化した。改正法により使用後の注射針、脱脂綿、ガーゼなどの感染の恐れのあるものは「特別管理廃棄物」に指定され、マニフェスト(管理票)の記載が義務付けられた(現在はすべての産業廃棄物に適用されている)。