ドクター・キリコ事件

ドクター・キリコ事件 平成10年(1998年)

 平成10年12月12日午後1時頃、東京都杉並区の無職の女性(24)に宅配便が届いた。女性は母親に「友人からクスリが送られてきた」と言って、自分の部屋にこもった。午後3時頃、女性が倒れて痙攣しているのを母親が発見。女性は「宅配便で届いたカプセル6錠を全部飲んだ」と言って意識を失った。母親はすぐに119番通報し、女性は救急車で杏林大病院救命救急センターに運ばれた。この女性の自殺がドクター・キリコ事件のきっかけであった。

 この女性は精神的に不安定な状態で、精神科への入退院を繰り返していた。それまで何回か薬物による自殺未遂を図っていた。遺書はなかったが、家族には死にたいと漏らしていた。宅配便には「草壁竜次」という送り主の名前と携帯電話の番号が書かれていた。救命救急センターの担当医が宅配便に書かれていた電話番号に連絡すると、男性が「青酸カリ入りのカプセル6錠を送った。純度の高い青酸カリなので確実に死にます。もし彼女が死んだら自分も死にます」と答えた。

 その後、草壁と名乗る男性から、女性の安否についての問い合わせの電話が、何度か病院にかかってきた。女性は危篤状態のまま、12月15日午前2時に死亡した。警視庁捜査1課と高井戸署は、青酸カリの送り主である草壁を調べようとしたが、草壁の名前、携帯電話、銀行口座は偽名だった。12月26日になって草壁が札幌市に住む27歳の男性であることが判明したが、その男性は女性が死亡した当日に自宅の2階で自殺していた。

 男性も青酸カリによる自殺だったが、男性の遺体を診た医師は、持病の喘息による病死と判断して警察に届けなかった。男性は荼毘(だび)に付されていたが、病院に残されていた男性の血液から青酸カリが検出された。男性は死亡した女性と面識はなく、インターネット上だけの関係であった。

 警察は草壁竜次と名乗る男性の自宅からパソコンとフロッピーを押収。分析の結果、男性はインターネットを通じて自殺志願者に青酸カリを売っていたことがわかった。銀行口座の入金状況から、平成10年3月から12月までに7人に青酸カリを送っていた。青酸カリを売った7人の相手先を調べると、その1人である東京都足立区の主婦(21)が平成10年7月3日に自殺していた。この主婦は亡くなる1カ月前に3万円で男性から青酸カリを買ったが、主婦が自殺に用いたのは青酸カリではなく睡眠薬だった。

 草壁竜次と名乗る男性は、東京都千代田区の私立大理工学部化学科を卒業した後、札幌市内の医薬品開発研究会社に務めていた。薬剤師の資格はなかったが薬剤には詳しかった。勤務ぶりはまじめだったが、給料が安いことを理由に退職。その後、男性は学習塾の講師をしていた。

 男性は、偽造した身分証明書を用いて薬局から5g660円で青酸カリを買い、5gを約3万円で自殺願望者に販売していた。薬局で「水の成分分析に用いる研究用」と偽って購入した青酸カリは3000人の致死量に相当していた。

 この事件が世間を驚かせたのは、匿名性の高いインターネットで、青酸カリという毒物を自由に売買していたことである。当時、インターネット上に「安楽死狂会」というホームページがあった。このホームページの「ドクター・キリコの診察室」という掲示板で、男性は青酸カリを販売していた。このホームページは、東京都練馬区の主婦(29)が開設したもので、ドクター・キリコの診察室は自殺や精神病に関すること、さらに心中相手の募集、薬物相談などの投稿欄があった。男性はこの掲示板で専属医師を気取っていた。

 ドクター・キリコとは、手塚治虫の人気マンガ「ブラックジャック」に登場する安楽死専門の医師「ドクター・キリコ」から取った名前だった。ブラックジャックは、患者の命を救う医師が主人公であるが、ドクター・キリコは患者の安楽死を手掛ける死神の化身として登場する医師であった。草壁竜次はその医師になり切っていたが、別のホームページ「完全自殺マニアル研究所」で青酸カリを販売しようとして非難され、「ドクター・キリコの診察室」へ移ったのであった。

 自殺願望者に青酸カリを売ることは自殺幇助(ほうじょ)になるが、男性の理屈は違っていた。男性は「青酸カリを、自殺という衝動から自分を守るためのお守り」としていた。「青酸カリがあれば、いつでも死ねるという安心感を持てる」というのがその理屈だった。インターネットの掲示板で「自分にはお守りがある。いつでも死ねると思うと生きていける。お守りが欲しければ連絡ください」と書き、自殺志願者らに販売していた。

 しかし杉並区の女性が青酸カリで自殺したことで、男性の理論は崩れ去った。彼女の死は男性の理屈を裏切り、幻想を現実化させた。妄想に裏切られ、男性は責任を取って自殺したのである。男性は自殺志願者の悩みを聞くドクターを気取り、その心地良さが妄想を走らせていた。警視庁捜査1課と高井戸署は、この男性を自殺幇助容疑で被疑者死亡のまま書類送検とした。

 ドクター・キリコ事件へのマスコミの反応は大きかった。インターネット社会では、顔も声も知らない相手から容易に毒物を買えるのだった。この事件は、新聞やテレビで話題を独占し、ホームページの管理者は「ドクター・キリコの診察室」を非公開とした。

 しかし同様のホームページが次々につくられ、草壁竜次を殺人者扱いにする世間を批判し、彼の行為を擁護する声が数多く書き込まれた。当時、自殺をキーワードで検索すると、2万4000件以上のホームページがヒットし、自殺の仕方を具体的に紹介していた。この事件はインターネット情報が新たな犯罪につながる恐怖を知らしめた。現実社会の裏に隠れた人々の勝手な心情をインターネットが醜くあぶり出した。

 平成10年、インターネットを利用した事件が頻発した。12月20日には、東京都板橋区の男性がインターネットで購入したクロロホルムで女性(28)を乱暴。男性は自宅で寝ていた女性にクロロホルムを染み込ませた布を押しつけたが、抵抗されたため逃走した。男性は逮捕されたが、女性の上司だった。この男性にインターネットでクロロホルムを売っていた京都大大学院生・加藤栄一(32)が逮捕され、加藤の銀行口座には10数人からの送金があった。加藤は研究室からクロロホルムを持ち出して販売していた。

 平成11年8月、静岡市の女性(38)が、兵庫県尼崎市の女性が開設した自殺や安楽死をテーマにしたホームページに「死ねる薬ください」とメールを送ると、メールを受けとった女性は、筋弛緩系薬品100錠を郵送した。静岡市の女性は、豊橋市内のビジネスホテルで内服、翌日応答がなかったため救急隊員が室内に入り、倒れている女性を発見。女性は一時重体となったが軽快した。「薬はホームページで知り合った女性から入手した」と話したことから、メールの交信記録から薬品を郵送した女性(32)が突き止められ、自殺幇助未遂の疑いで逮捕された。自殺そのものは処罰されないが、自殺を容易に援助する自殺幇助は刑法202条によって、6カ月以上7年以下の懲役または禁固に処されことになる。