クローンヒツジの誕生

クローンヒツジの誕生 平成9年(1997年)

 平成9年2月23日、英国の新聞「オブザーバー」はエディンバラにあるロスリン研究所のウィルムット博士らがクローンヒツジの誕生に成功したと1面トップで報じた。この記事は、英国の科学雑誌「ネイチャー」に掲載予定だった論文をスクープしたもので、オスの関与なしに生体組織細胞から同じ遺伝の情報を持つヒツジを誕生させたことで、全世界を驚かした。

 ウィルムット博士は、メスのヒツジの乳腺細胞から核を取り出し、あらかじめ核を除去していた未受精卵の中に乳腺細胞の核を移植し、移植細胞を別のヒツジの子宮に植え付けてヒツジを誕生させたのである。つまり誕生した子ヒツジには3匹の母親がいるが、父親は1匹もいなかった。

 子ヒツジの愛くるしい写真が新聞に掲載され、子ヒツジの名前はドリーと紹介された。このドリーの名前は、豊かなバストで知られる歌手ドリー・パートンにちなんだものである。クローンとは「遺伝的に均一の細胞集団」を意味しており、クローン技術は植物では挿し木として古くから利用されていた。1962年に、英国のガードンがアフリカツメガエルを使って、オタマジャクシの小腸の上皮細胞の核を未受精卵に移植して、オタマジャクシになったことを報告しているが、哺乳類の体細胞クローンはドリーが世界初であった。

 哺乳類では体細胞クローンのドリー誕生の以前から、受精卵のクローン技術は完成していた。受精卵クローンとは「通常の受精卵を細胞分裂させた後に、その細胞の核を未受精卵に移植すること」である。受精卵クローンはオスの関与が必要であるが、体細胞クローンはオスの関与を必要としないことが決定的に違っていた。

 人間を含めた哺乳類は、卵子と精子が受精して子供が生まれる。子は父親と母親の遺伝子を持つため、一卵性双生児を除けば、子供の遺伝子が他人と一致することはあり得ない。しかしドリーの誕生は「受精なしで同じ遺伝子を持つヒツジをつくった」ことで、ヒツジで可能なことは人間でも可能であることを意味していた。

 人間は約60兆個の細胞からできているが、これらは卵子と精子が合体した1個の受精卵から分化したものである。受精卵が母親の体内で分裂を繰り返し、脳、筋肉、心臓、肝臓などの各臓器へ分化する。しかし一度分化した細胞は、逆戻りできないのが生物学の大原則だった。肝細胞に分化した細胞は肝細胞にしかなれず、皮膚に分化した細胞は皮膚細胞、筋肉に分化した細胞は筋細胞にしかなれなかったが、ドリーは乳腺細胞から誕生している。つまりドリーの誕生は、分化した臓器細胞であっても、あらゆる細胞に変化できることを意味していた。

 ウィルムット博士らは、分化した細胞の核の履歴を消すため、細胞培養血清濃度を10%から0.5%に下げ、細胞を飢餓状態にして初期化し、次に弱い電気的刺激を与え、核の全能性を目覚めさせたのである。受精卵だけに与えられていた万能の特権を、各組織に分化した細胞にも持たせたのである。

 このことは生物学の常識を破る大事件だった。クローン技術は西遊記に出てくる孫悟空が使う分身の術のイメージである。孫悟空は、自分の頭髪を抜いて息を吹きかけ、髪の数だけの分身をつくった。クローン技術とは分身の術と同じで、特定の人間を何人でも複製できる夢のような技術であった。

 ウィルムット博士は、ヒツジの乳汁から医薬品タンパクをつくることを研究していた。遺伝子組み換え技術で、医薬品タンパクを含んだミルクを産生するヒツジをつくり、そのヒツジをクローン技術で大量に増やせば製品化できると考えていた。

 事実、ドリーの誕生から5カ月後の7月、ヒトの血液凝固因子を含んだミルクを産生するクローンヒツジ「ポリー」を誕生させている。しかし世界の注目は、医薬品よりもクローン技術の人間への応用に集まった。

 体細胞が残されていれば、クローン技術で死者をよみがえらせることができた。マンモスなどの絶滅した動物をよみがえらせ、絶滅の危機にある動物を増やすことも可能だった。さらに自分のクローンをつくれば、臓器移植が必要なときに、その臓器を利用することも可能だった。自分の無脳児クローン人間をつくれば、臓器移植に倫理的問題は生じないはずであった。このようにドリーの誕生はクローン技術の人間への応用、人間を不死の世界へ導く魔法のような技術として大きな反響を巻き起こした。

 クローン技術によって、性の概念や人間の存在そのものが、根本から覆る可能性があった。そのため米国のクリントン大統領やフランスのシラク大統領は、クローン人間の研究を禁止する声明文を出した。

 カトリックの総本山であるバチカンは「人間は人道的な方法で生まれてくる権利がある」として、クローン技術の人間への応用を禁止することを各国に呼び掛けた。キリスト教の世界では「人は神が創造するもので、人が人を創造するものではなかった」。クローン技術が宗教界に与えた衝撃は大きかった。

 欧米ではクローン技術の制限の政治的判断は早かったが、その背景には「クローン人間は自然の摂理に反し、神への冒涜(ぼうとく)」とするキリスト教の考えがあったからである。さらにヒトラーの民族浄化、優生思想といった過去の過ちが記憶に残っていたからである。

 多くの国々でクローン技術の人間への応用は法律で禁止され、日本でも、平成13年6月6日にクローン技術規制法が施行され、クローン技術の人間への応用は10年以下の懲役、または1000万円以下の罰金となった。

 人々がクローン技術に不安を持つ中、クローン人間の作成を公言する科学者が相次いだ。平成10年1月、米国のシード博士は不妊患者を対象に世界初のクローン人間をつくると宣言。平成14年4月、タス通信はイタリア人医師アンティノリが、クローン人間の妊娠に成功、すでに妊娠8週間であると伝えた。同年、スイスの新興宗教団体がクローン人間の妊娠に成功したと報じられた。このようにクローン人間のニュースは何度か報道されたが、その真相については分かっていない。クローン人間誕生の正式な報告はないが、世界のどこかでクローン人間が誕生している可能性は否定できない。

 平成10年4月13日、クローンヒツジのドリーがメスの子ヒツジを出産、クローンヒツジの生殖能力が確認された。平成13年、ドリーは高齢のヒツジに特徴的な関節炎を発症。平成15年2月14日、肺の感染症のためドリーは安楽死となった。ドリーの寿命は通常のヒツジの約半分だった。クローン動物は、細胞分裂に必要なテロメアの長さが短いことが報告されていて、クローン動物は通常より寿命が短いとされている。ドリーの早い死はこのことを暗示していた。

 クローン技術によって、これまでウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ネコ、ラット、イヌ、サルなどが誕生している。もちろん無事に生まれる確率は数%と低く、ドリーの場合でも277回試みて、やっと生まれた1匹だった。クローン哺乳類の共通した合併症として、胎盤の形成異常、肺の障害がみられた。

 一方、クローン技術は畜産物の安定供給、畜産振興のために応用されている。平成10年、石川県畜産総合センターで近畿大農学部の角田幸雄教授が世界で初めて成牛の体細胞からクローン牛2頭を誕生させ、「かが」「のと」と名付けられた。

 平成19年までに、日本では535頭のクローン牛の出産を成功させている。科学技術会議(内閣府)は人間のクローン研究を禁止しているが、畜産動物については推進している。クローン技術により「霜降り和牛」などの高級牛肉をつくることを目指していた。

 しかしクローンウシの肉や乳製品を食用とするかどうか、食用とした場合には表示をどうするかについてはまだ解決していない。クローン牛は科学的に安全とされているが、それはあくまでも現在の科学の範囲においてであり、本当に安全かどうかについては、消費者が長年かけて実験台になることになる。

 またクローンウシが安全であったとしても、消費者が受け入れるかどうかは別問題であった。平成15年10月31日、米FDA(食品医薬品局)は体細胞クローン技術でつくった家畜の肉やミルクの安全性に問題はないと公表。そのため米国ではクローン牛の子孫の出荷は自主規制から外されている。日本では、その牛肉を輸入するかどうかの結論は出ておらず、現在、輸入は自粛中である。

 ドリーが誕生したとき、ドイツの週刊誌「シュピーゲル」は、その表紙にアインシュタイン、ヒトラー、モデルたちの複数の写真を並べた。この表紙はクローン技術が人々に大きな夢を与えると同時に、大きな恐怖と脅威も同時に与えることを表していた。