クリプトスポリジウム

クリプトスポリジウム 平成8年(1996年)

 平成8年は病原性大腸菌O157が大流行した年であった。このO157騒動の陰に隠れてしまったが、8800人の被害者を出したクリプトスポリジウムによる集団感染があった。大きな話題にならなかったが、本件は水道水神話、社会衛生神話を揺るがす大事件だった。この事件は、東京の北西約50キロにある埼玉県越生(おごせ)町で発生した。越生町は、梅林や滝などの自然に恵まれ、「緑とせせらぎの町」とうたわれていた。

 平成8年6月7日の金曜日、越生町の3つの開業医と市川病院に下痢の患者が来院、翌日には下痢の患者が次々と押し寄せた。そして10日の月曜日には患者は爆発的に増え、市川病院は下痢の患者であふれた。病院のトイレは長蛇の列をつくり、病院周辺がトイレ代わりになった。下痢は下着を脱ぐ時間もないほどの激しい水様性のものであった。患者の多くは、腹痛と下痢による脱水症状を示した。

 越生町と坂戸保健所は、風邪(感染性胃腸炎)による下痢を疑ったが、食中毒も否定できなかった。そのため患者や調理者の便、給食の保存食などを調べたが、原因となる病原微生物は検出されなかった。越生町の小・中学校の給食は、自校調理方式なので学校給食による集団発生は考えにくかった。また患者は小・中学校の生徒だけでなく、越生町全体にわたっていた。

 最終的に人口約1万3800人の越生町で、被害者は住民の6割強に当たる8800人が調子を崩し、2800人が病院で手当てを受けた。小・中学校でも7割の生徒に下痢症状を認め、また越生町の住人ばかりでなく、他の町から研修に来ていた80人、ゴルフ場に来ていた9人も同様の下痢や腹痛をおこした。

 埼玉県衛生研究所の山本徳栄主任は、塩素処理がなされている水道水で生存可能なのは原虫類であることから、原虫類に焦点を当てて検査を行った。下痢を起こした患者の糞便、水道水を調べ、クリプトスポリジウム(Cryptosporidium paruvum)の原虫を検出したのだった。山本主任は、大阪市立大医学部・井関基弘助教授に確認を依頼し、6月18日、この集団感染の原因がクリプトスポリジウムによることが確定した。越生町の集団下痢事件によって、クリプトスポリジウムが知られるようになったが、クリプトスポリジウムという耳慣れない原虫の名前を知っている者はほとんどいなかった。

 越生町の集団下痢は水道水による国内最大の規模で、この事件によって「水道水に病原菌はいない」とする水道水神話が崩れたのである。水道水には殺菌のため一定濃度の塩素が加えられていたが、クリプトスポリジウムは水道法に基づく水質基準の塩素濃度では死ななかった。国や地方自治体の水道関係者は、このことに大きな衝撃を受けた。

 越生町の水道は、約8割を越生町の越辺(おっぺ)川水流から、約2割を埼玉県営水道の利根川水流から供給されていたが、利根川を水源とした水道からの感染者はいなかった。つまり、町営水道水がクリプトスポリジウムに汚染されていたのである。クリプトスポリジウムは越生町の浄水場の原水、越辺川の水、越辺川上流の下水処理施設の排水からも検出された。27日に越生町は町営水道からの給水を停止し、県営水道に切り替え、集団感染は終息に向かった。越辺川の水がクリプトスポリジウムを含んだ家畜の排せつ物で汚染されていたとされている。

 このクリプトスポリジウムが日本で報告されたのは、昭和61年からのことで、高知、大阪、東京などで年間数件程度であった。日本で初めての集団感染は、昭和62年、青森県黒石市で40人が下痢を起こし10人の便からクリプトスポリジウムが検出された事例である。

 平成6年8月には、神奈川県平塚市の飲食店の雑居ビルで集団発生している。感染の原因は、ビルの受水槽の上部に穴が開いていて、隣接した汚水槽の排水ポンプが故障し、この穴から汚水や排水が受水槽に混入したことによる。この平塚市の事例では、クリプトスポリジウムに暴露したのは736人で、発症者が461人、124人が病院で治療を受け、5人が入院となっていた。この集団感染は、水道そのものの汚染ではなかったので、水道関係者はあまり注目していなかった。

 平成16年8月に長野県のプールを利用した183人が下痢を起こし、74人の患者の便からクリプトスポリジウムが検出されている。このプール感染で興味深いのは、このプールを利用した者が別のプールを利用し2次感染を起こしたことである。この2次感染で48人が症状を示し、6人中2人の便からクリプトスポリジウムが検出されている。

 世界的なクリプトスポリジウムの集団発生は、1984年に米国のテキサス州で、井戸水から900人が感染している。また87年にはジョージア州で河川を水源とした水道水によって3万2000人が感染し、それぞれの感染率は34%、40%と高値であった。

 1993年には、ウィスコンシン州ミルウォーキーで、水道水による集団感染が起きている。約2週間の間に湖水を水源とする水道水を飲んだ160万人のうち40万3000人が感染(感染率25.1%)、約4000人が入院、AIDS 患者など400人以上が死亡した。このミルウォーキーの集団感染が世界最大のもので、クリプトスポリジウムはAIDS患者、免疫抑制剤や抗がん剤の服用で抵抗力が落ちている場合に重症化しやすかった。

 クリプトスポリジウムは、1912年に発見された原虫で、ヒトへの感染は76年に初めて報告されている。クリプトスポリジウムは正常なウシやネコの数%に常在しており、ヒトには常在していない。ウシなどの腸内で繁殖し、便とともに排出される。排出されたクリプトスポリジウムは、オーシストという固い殻に覆われ、オーシストは数カ月間水中にいても感染力を保持している。直径が4〜6μmと小型であるため浄水処理をくぐり抜け、オーシストの塩素への強さは大腸菌の69万倍とされ、水道水の塩素消毒では死滅しなかった。そのためいったん汚染すると安全な水の確保は困難であった。

 クリプトスポリジウムは感染すると、吐き気、水様性下痢、腹痛、発熱などの症状が、3日から1週間続くが、健常人であれば自然に治癒する。国内での死亡例はないが、エイズ患者、老人や子どもは危険である。クリプトスポリジウムの診断は、検便でオーシストを検出することである。患者の便は多数のオーシストを含むが、極めて小さいために顕微鏡で見落とされることが多い。有効な治療法はなく対症療法のみである。

 米国のボランティアを用いた実験では、1人当たり30個のオーシストを飲むと20%が発症し、132個のオーシストを飲むと半数が発症する。また患者の世話をしていた18人の看護師のうち8人が感染した報告もあり、感染力が強いことが分かる。感染力は赤痢菌の数百倍で、患者が下痢をすると約10億個のオーシストが放出される。

 クリプトスポリジウムは、加熱と冷凍に弱いので1分間煮沸すれば感染は防止できる。水道原水の水質検査、浄水処理の徹底が集団感染の防止になるが、塩素消毒が無効であるため完全な防止は困難である。クリプトスポリジウムを防止するには、1μm以上の粒子を除去できる浄水器の使用が有効である。

 越生町で発生したクリプトスポリジウム感染は、水道水による集団感染として関心を集めた。越生町は水道料金を23%値上げし、4億円をかけて最新式浄水施設を完成させた。膜の穴の直径は最大0.2μmで、この濾過装置を取り付けたのは越生町が全国初であった。