らい予防法廃止法案

らい予防法廃止法案 平成8年(1996年)

 らい病は聖書や仏典にも記載されていて、人間の歴史とともにあった疾患である。皮膚や末梢神経が侵される感染症で、病気が進行すると容貌が崩れ、手足が変形することから、人々はこの病気を極端に恐れていた。らい病は古くから天刑病(神の怒りを受けた病気)とされ、患者は迫害を受けた。さらに患者への偏見と迫害を助長したのが、国が「療養所と呼ばれる強制収容所」をつくったことである。療養所に入れば二度と外には出られない恐怖が、らい病に加わった。

 かつてらい病は遺伝病とされていた。それはらい菌(Mycobacterium leprae)の感染力が非常に弱いため、容易に他人には感染せず、家庭内で長期間患者と接触する親子間での感染があったからである。しかし明治6年、ノルウェーの医師G.H.A.ハンセンが、らい患者の組織から結核菌に似た桿状の細菌を発見。それ以来「らい病はらい菌による慢性の感染病」となった。

 らい病はハンセン病とも呼ばれ、らい菌は感染しても発病は極めてまれであった。その証拠に、患者に接する療養所職員、医師、看護師の中でらい病を発症した事例は報告されていない。らい菌の感染力は極めて低く、感染したとしても増殖は緩やかで、潜伏期間は5年以上とされている。このようにらい病は遺伝病ではなく、感染症であることが証明されたが、治療法のない不治の病だったこともあり、患者への差別や偏見は改善されなかった。

 明治時代、らい病患者は神社仏閣で物乞いをする姿が多くみられた。患者の皮膚は結節様に盛り上がり、いわゆる獅子面となった。その当時の日本は、日清、日露両戦争に勝利し、文明国の仲間入りを目指していた。そのため明治政府は、らい病を社会の表面から隠す政策をとることになる。

 明治40年、「癩予防ニ関スル法律」がつくられ、らい患者をへき地や孤島などに強制隔離収容することになった。この隔離収容を推進させるため、国はらい病を感染性が極めて高い疾患と宣伝して人々の偏見をあおった。青森から沖縄まで13カ所に国立療養所を配置し、療養所長に司法権と警察権を与えたため、入園者は療養所長に逆らうことができなかった。ちなみに、明治35年の第1回らい病患者調査では患者数は3万393人であったが、大正8年の第3回調査では1万62611人であった。

 大正4年、東京全生病院長の光田健輔は「らい病患者への優生手術」を行った。入所者同士が結婚する場合、子孫を残すことを許さず、男性には断種、女性には中絶と堕胎を強制した。これは光田の独断であったが、以後、日本における優生政策の一環として行われるようになった。

 昭和18年、米国でらい病の特効薬プロミンが開発され、昭和22年には日本でもプロミンの投与試験が開始された。昭和23年の日本らい学会でプロミンの効果について発表がなされ、この特効薬によって、らい病は恐ろしい病気ではなくなった。

 昭和27年、WHOの「らい専門委員会」は患者隔離を見直すと表明。そのため故郷へ帰れると考えた入園者たちは、これまでの隔離政策を変えるために立ち上がった。このように時代の流れは変わったが、当時のハンセン病の国立療養所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園)、林芳信(東京・多磨全生園)、宮崎松記(熊本・菊地恵楓園)の3園長は、患者の意思に反して、患者を収容する法律、断種、逃走罪などの罰則設定の必要性を国会で証言した。そのため、昭和28年に改正した「らい予防法」は従来の「癩予防法」となんら変わらず、日本は世界でも珍しい隔離政策を続けることになった。なお隔離政策に貢献したとして、光田健輔は後に文化勲章を受けている。

 当時の国の担当者、療養所の職員、ハンセン病学者は、「入園者たちが普通の人と変わらないこと、感染の恐れがないこと、後遺症を残しているだけであること」を十分に認識していたが、隔離政策は続けられた。隔離政策は医学的根拠を欠き、患者の尊厳と基本的人権を著しく侵害していた。そのため患者は毎年「らい予防法」の改正、廃止を国に働き掛けたが、この運動が実を結ぶには40年以上の月日がかかった。

 平成7年4月22日、日本らい学会はハンセン病患者の隔離政策を廃止する見解をまとめた。日本らい学会は「偏見に満ちた法律の廃止を、積極的に求めなかったことを反省する」と表明した。同時に、患者の9割が療養所に入っているので、予防法を廃止すると入居者の行き場がなくなると釈明した。

 平成8年1月、菅直人厚相は、「行政としても深い陳謝と反省の意を表する」と患者に謝罪。同年3月27日、国会で全会一致で「らい予防法廃止法案」が成立した。明治40年制定の「癩予防法」から88年間続いた強制隔離の歴史にようやく幕が下りたのである。らい予防法廃止法案によって、ハンセン病患者は一般の病院や診療所で健康保険を使って治療を受けられるようになった。

 平成10年、九州の国立ハンセン病療養所に収容されていた元患者13人が、強制隔離や断種など国の誤った政策で苦しんだとして、国を相手に1人当たり1億1500万円の支払いを求める国家賠償請求訴訟を熊本地裁に起こした。平成13年5月11日、熊本地裁は国の隔離政策は違憲と判断。同月23日、小泉純一郎首相は控訴を断念、国はこれまでのハンセン病政策に対して責任を認めて謝罪した。

 平成10年から厚生省が行った社会復帰支援事業は、療養所を出るときに最大150万円の助成だけだったが、この判決により「ハンセン病補償法」が成立し、元患者には800万から1400万円の賠償金が支払われるようになった。

 現在、ハンセン病患者は約4500人とされ、そのほとんどが後遺症のみの患者である。しかし長期にわたった隔離のため、一般社会での生活が困難となり療養所から外に出られないでいる。なお日本の新規ハンセン病患者は年間10人以下とされ。現在では治療法が確立しているので後遺症を残すことはない。平成15年11月、熊本県の南小国町・黒川温泉でハンセン病療養所入所者の宿泊拒否問題が起きている。宿泊を拒否した旅館は廃業に至ったが、このようにハンセン病への偏見がまだ残っている。平成20年現在、国立ハンセン病療養所において療養生活を送っている約3000人の入所者の平均年齢は80歳で、その大多数は社会復帰が困難な状況に置かれている。

 ハンセン病を取り扱った文学書としては小川正子著「小島の春」をはじめ、北条民雄著「いのちの初夜」、津田せつ子著「随筆集 曼珠沙華」、林 富美子著「野に咲くベロニカ」などがある。