いわき市の医師殺し

いわき市の医師殺し 平成10年(1998年) 

 平成10年5月29日、午前10時5分頃、福島県いわき市常磐上湯長谷町上ノ台の市立常磐病院(萩原昇院長)の神経科外来で、診察中の精神神経科医師・鈴木裕樹さん(34)が、診察を受けに来た同市内矢吹町の無職大和田源二(42)に刃物で首を切られ死亡した。

 大和田源二は、ほかの医師ら3人にもけがを負わせ、刃物を持ったまま自動車で逃走した。大和田は、以前から統合失調症で同病院の神経科に通院していた。大和田は乗用車で逃走したが、東京都内の国道で千住署員に発見され、同日午後、いわき中央署は大和田源二を殺人未遂容疑で逮捕した。

 精神鑑定が2人の医師によって行われ、心神喪失と心神耗弱の2通りの鑑定に分かれたが、地検いわき支部は、責任能力を問えない心神喪失の鑑定を採用し、平成11年2月、大和田を不起訴処分にした。心神喪失とは是非善悪を判断できない状態のことである。一方、心神耗弱とは善悪の判断は可能であるが、判断に従って行動することが困難な状態で、有罪であるが減軽されることが多かった。

 この検察の不起訴処分に対し、鈴木裕樹さんの父親・通夫さん(66)がいわき検察審査会に不起訴不当の申し立てを行った。その理由は、大和田源二は病院に来る途中で刃物を購入して隠して持ち込んだこと、車を正面玄関に止めて逃走しやすいようにしたこと、犯行後も逃走するなど計画性が認められ、統合失調症の行動とは断定できない、としたからである。

 平成13年6月、いわき検察審査会は「刃物を準備し、犯行後に逃走するなど計画性が認められる」として、不起訴処分は不当として再度精神鑑定が行われ、責任能力ありと判断された。福島地検は大和田源二を殺人罪で起訴することになった。また医師の遺族はいわき市と男性患者、その両親を相手に総額2億2000万円の損害賠償を求めた。

 平成15年12月13日、福島地裁の大沢広裁判長は大和田源二に懲役10年の刑を言い渡した。犯行は短絡的で酌量の余地に乏しく、刑事責任は極めて重いとした。争点となった責任能力については「心神耗弱状態」と認定し、心神喪失状態とする精神鑑定を退けた。発生から判決まで5年7カ月が経過したが、被告の責任能力を認める判断が下されたのである。

 平成16年5月18日、鈴木裕樹さんの両親が損害賠償を求めていた訴訟判決で、福島地裁の吉田徹裁判長は、いわき市と大和田、その母親に総額約1億6500万円の支払いを命じた。吉田裁判長は「いわき市は診察室に逃げる場所を確保するなど、医師の安全を確保する義務があった」と述べ、いわき市の管理責任の過失を認めた。なお鈴木裕樹さんの両親は損害賠償金の一部を日本司法精神医学会に寄付して、「鈴木裕樹研究基金」として若手の研究の運用になっている。

 精神障害者の凶行事件は、精神障害から不起訴になることが多かった。しかし最近では、大阪の大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件、滋賀県草津市の母子殺害事件、沖縄県佐敷町の6人殺傷事件など、加害者の責任能力を認める傾向が強まっている。

 精神障害者は、日本の全人口の約1.7%であるが、犯罪に占める割合は0.6%にすぎない。精神障害者の犯罪率は0.09%で、国民全体の犯罪率(0.25%)に比べれば3分の1程度である。このことから「精神障害者が犯罪を犯しやすいのは間違っている」とする精神科医が多い。しかし殺人や放火などの凶悪犯罪に関しては、精神障害者の犯行頻度は高いとする統計もあり、精神障害者と犯罪に関する一般人のイメージが、単なる偏見かどうかについて議論の余地がある。