逸見アナのがん闘病宣言

逸見アナのがん闘病宣言 平成5年(1993年)

 フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝さんは、アナウンサーの枠を超え、バラエティー番組やクイズ番組などで華々しく活躍していた。穏やかな人柄が人々の共感を呼び、レギュラー番組を6本抱え人気絶頂の時期にあった。だが、逸見さんのテレビに映る姿が、この数カ月、急にやせてきたことを多くの視聴者が感じていた。

 平成5年9月6日、国民的人気者である逸見さんがテレビを通して記者会見を行い、自分が胃がんであることを告白したのである。逸見さんは、自分の病状の経過を次のように説明した。

 本年1月の胃の検査で胃がんが見つかり告知を受けた。対外的には十二指腸潰瘍として、東京の前田外科病院で手術を受け、仕事に復帰した。しかし7月頃、上腹部にしこりを感じ、再検査の結果、小鶏卵大の腫瘍が見つかった。それは胃がんの転移で、8月12日に摘出術を受けた。さらに9月3日の再検査で、腹膜と内腹壁にがんが見つかり、がんは腸に癒着していて、放置すれば数カ月の命との説明を受けた…。

 逸見政孝さんは、記者会見で時折笑みを見せながら、最後に「がんと戦う人たちを勇気づけるためにも、必ず生還します」と述べた。それはがんの告白と同時に、がんへの闘病宣言であった。

 記者会見で闘病宣言をすれば、後へは戻れない。泣き言もいえず、個人的な病気である自分のがんを国民に巻き込めば、自分の意志を変えることはできない。このように、自分の弱い気持ちを強めるため、自分を追い込んだものと思われる。

 記者会見では穏やかな態度だったが、「死に直結するがんの悲劇」を国民にみせ、悲劇を克服する意思を演出した。NHK以外のマスコミは、この闘病宣言を大きく取り上げ、テレビのワイドショーや新聞、雑誌などは「勇気ある姿に感動」などと連日のように報道した。私生活はもちろんのこと、病気と家族愛を結び付ける過剰な報道により、逸見さんの闘病生活は国民的話題になった。

 タレントは、常に視聴者を意識している。彼の記者会見の真意は、単なる思い上がった演出と思える。前田外科病院は、逸見さんの胃がんの再手術は無理と判断、放射線治療を勧めていた。しかし逸見さんは承知せず、東京女子医大病院で再手術を受けることを決意していた。

 9月16日、東京女子医大病院で13時間にわたる手術が行われ、重さ3kgにも及ぶ臓器が摘出された。術後1カ月の経過は良好で、マスコミは廊下を何メートル歩いたとか、何を食べたとか、逐一報道した。逸見さんは「抗がん剤の治療に備えて、体力をつけることが私に課せられた仕事である」と宣言した。

 逸見政孝さんの所属事務所は、抗がん剤治療が終了すれば退院できること、年末年始は自宅で過ごすと発表した。しかし11月、抗がん剤の治療を始めた直後から、食事がのどを通らなくなり、体力が落ちていった。12月に入ると、微熱などが出て病状は悪化。そして12月24日、容体が急変し、逸見さんは翌25日に48歳の若さで死去した。闘病宣言から100余日の壮絶な戦いであった。逸見政孝さんの死後、多くの追悼番組が放映され、通夜の翌日には、遺体を乗せた霊柩車がテレビ各局を回り、放送局の社員が玄関前で逸見さんを見送った。

 そしてその後、「逸見さんのがんは腹膜に転移していて治療は困難で、手術によって余命を縮めてしまった」とするコメントが目立つようになった。逸見政孝の死を早めたとして東京女子医大病院への非難がせきを切ったように出はじめた。逸見さんは前田外科病院で2度、その後、東京女子医大病院で再手術を受けたが、「発見時から悪性の進行がんで腹膜にも転移していたのに、なぜ手術をしたのか」「本人に病状を正確に伝えていたのか」などと勝手な意見が繰り返された。

 前田外科病院の前田昭二院長は「逸見さんは毎年胃の検診を受け、平成5年1月の内視鏡検査で初めて胃がんが見つかった。胃がんのタイプはボールマン4型と呼ばれるもので、胃がんの中でも進行の極めて速いものであった」と述べた。

 ボールマン4型とは、ドイツの外科医ボールマンが胃がんの形状によって分類した進行がんの1つで、胃が硬く委縮することから、スキルス(硬性)胃がんと呼ばれていた。

 通常の胃がんは、胃の粘膜表面に大きな隆起や陥没をつくるため、エックス線や内視鏡によって早期発見が可能である。だがボールマン4型は、がん細胞が胃壁内に潜り込むように進行するため、早期発見は困難であった。つまり、スキルスは見つかりにくく、発見されたときには手遅れのことが多かった。

 スキルスは、胃がん全体の数%の頻度で、若い女性に比較的多くみられた。治療は手術と抗がん剤投与の組み合わせであるが、5年生存率は10%台と低い。昭和63年9月に、女性タレントの堀江しのぶさん(23)の命を奪ったのもこのスキルスだった。

 前田院長によると、本人にはがんを告知し、2月4日に1回目の手術を行った。胃の5分の4を切除し、見える範囲の腫瘍はすべて取り除いた。さらに7月、みぞおちに小鶏卵大のしこりが見つかり、8月12日に2度目の手術を行った。しかし全部を取り切れないと判断、直径3cmほどの腫瘍を取っただけで腹部を縫合、その後は放射線治療を行う予定だった。

 前田院長は、がんの再々手術はむしろ命を縮めるとしていたが、逸見さんは3度目の手術に賭け、東京女子医大で手術を受けることを希望したのだった。東京女子医大で行われた手術は、膵臓の半分、脾臓や大腸の一部など3kgの内臓を切除するものだった。

 前田院長は「女子医大の手術は意味があったとは思えない」と批判的な発言をした。この発言に対し、女子医大の執刀医・羽生富士夫教授は「末期がんに対し、外科医は無力ではあるが、ほかに治療法もないぎりぎりの決断だった」と述べた。

 がんによる死亡は、昭和56年に日本人の死因の第1位となり、毎年数千人の割合で増え続けている。日本人の3割ががんで死亡しており、有名人である逸見さんが48歳の若さで亡くなったことで、世間の人々にとってがんの治療法についての関心が高まった。

 逸見さんの死をきっかけに、がん手術の是非が話題になった。しかしながら、がんの治療がうまくいく、うまくいかないのは運命的な結果である。うまくいけば、医師は感謝され英雄となるが、駄目な場合には非難されることになる。逸見さんの手術がうまくいく可能性は極めて少なかったが、成功の可能性はゼロではなかった。

 羽生教授は、がんの治療の可能性や手術の成功率などをすべて逸見さんに話していた。逸見さんは、早稲田大文学部演劇科卒の教養のある文化人で、納得できない説明では、手術など受けるはずはなかった。逸見さんの意思を尊重して、羽生教授は手術を行ったはずで、実情を知らない第三者が、その場にいなかった者が、手術を非難するのはおかしな話であった。

 マスコミは前田院長と羽生教授への賛同、非難を繰り返し、さらに前田外科病院の手術で取り残しがあったから死亡したとの報道もあり、遺族を巻き込んでの醜い論争は泥沼化していった。

 前田院長は医学的常識から再手術を勧めなかった。一方の女子医大の羽生教授は、他に方法がないから手術を勧めた。結果的に女子医大の手術はうまくいかなかったが、もし女子医大の手術が成功していれば、医学の常識が変わっていたであろう。つまり「がんの治療が、医師の考えや手術の腕によって決定するという幻想」を国民に持たせてしまうことになったであろう。

 がんの闘病宣言という個人的プライバシーの公表は自由であるが、闘病宣言によって治らないがんが治るわけではない。「がんの治療が精神的なもので左右される」と、逸見さんも国民も勘違いしていたのであろう。

 がんは治るがんもあるが、治らないがんは治らないのである。患者の気力を充実させ、自己免疫(抵抗力)を高めるとの理屈はあるが、「がんと闘う」という個人的なことを美談としてマスコミが取り上げ、がんに負けるとその敗因を論評するのは見苦しいことである。逸見さんの死は残念であるが、マスコミビジネスに利用された単なる商品だったと思える。本人も多分そのことを分かっていたと思う。