ホパテの劇薬指定

ホパテの劇薬指定 平成元年(1989年)

 平成元年2月21日、厚生省は副作用で11人の死者を出したとして、認知症の改善薬ホパテン酸カルシウム(製品名「ホパテ」)を劇薬に指定した。田辺製薬が開発したホパテは、いわゆるボケ防止薬として広く使われ、後発メーカーも次々に参入して、36社が製造し15万人に投与されていた。当時はホパテ以外にボケ防止薬がなかったことから、ホパテは年間300億円を売り上げるベストセラー薬品になっていた。

 昭和53年1月に、ホパテは小児の精神発育遅滞や言語障害の緩和剤として承認され、その後、昭和58年2月に成人の脳卒中による言語障害や情緒障害にも有効とされ、いわゆる老人のボケ防止薬として使用され売り上げを急増させた。

 しかし発売当初から、ホパテによる血糖低下や意識障害などが報告され、小児科領域でも乳幼児4人がけいれんや肝障害で死亡していた。厚生省は使用上の注意、緊急安全性情報を配布して医療機関に注意を呼び掛けたが、副作用が後を絶たないことから、平成元年2月に厚生省はホパテを劇薬に指定した。

 薬事法では薬剤を、「毒薬・劇薬」「指定医薬品」「要指示医薬品」「習慣性医薬品」の4つに区分している。劇薬に指定されたホパテの容器には赤字で「劇」と書かれ、保管場所も他の薬剤と区別された。また同剤を投与する場合は、2週間ごとの検査、1カ月ごとの効果判定、調査票による全例報告、このように厳しい取り扱いとなった。この劇薬指定により、ホパテは事実上使用できなくなった。

 認知症はアルツハイマー型と脳梗塞などの脳血管型に大別され、高齢化社会とともに認知症が増え、抗認知症薬の市場拡大が予測されていた。当時、認知症に効果的な薬剤はなかったが、ぼけ防止薬という言葉が日常的に使われ、「脳細胞の機能を高める脳代謝賦活剤」と「脳の血液循環を改善して脳の働きをよくする脳循環代謝改善剤」に大別されていた。

 ホパテはぼけ防止薬(抗認知症薬)として先導的役割を果たした。そのため昭和61年以降に開発された抗認知症薬は、ホパテの効果を基準に採用が決められた。ホパテの有効性と同等あるは優位である場合に新薬は認可された。つまり、「ホパテは認知症に有効なので、新薬がホパテと同じ効果を示せば、認知症に有効のはず」として、次々に新薬が生まれていった。

 ホパテの販売中止は副作用によるものであったが、発売当初からホパテの有効性に疑問が持たれていた。つまりホパテ騒動は、ホパテとの比較試験で開発されたぼけ防止薬にも、有効性の疑惑が連鎖的に波及したのである。ボケ防止薬の市場は年間4000億円とされ、ホパテ騒動は過熱するボケ防止薬開発競争に冷水を浴びせることになった。

 ホパテ騒動から4年後の平成5年、他のぼけ防止薬についても再評価が行われることになった。再評価の方法は、市販後の調査で「使用したら効果があった、副作用がなかった」という簡単なものだった。認知症の症状を数値で示すことは困難なため、薬剤の有効性は医師の主観に頼らざるを得なかった。

 しかし厚生省は、薬剤の有効性を知るため、製薬会社にプラセボ(偽薬)を対照にした薬効の再評価を迫った。つまり「薬剤を飲んだ患者と偽薬を飲んだ患者」の比較試験を製薬会社に求めたのである。その結果、平成10年5月、厚生省の中央薬事審議会は脳循環代謝改善剤について、「医療上の有効性は確認できない」と結論を下した。有効性が確認できないということは、無効ということである。

 中央薬事審議会が効果なしとした脳循環代謝改善剤は、「アバン」(武田薬品工業)、「エレン」(山之内製薬)、「セレポート」(エーザイ)、「ヘキストール」(ヘキスト・マリオン・ルセル)、「アルナート」(藤沢薬品工業)、「アニカセート」(東和薬品)、「ケネジン」(大洋薬品工業)、「プロベース」(ダイト)、「ペンテート」(沢井製薬)の9種類だった。ホパテという親亀がこけたので、子亀もこけたのであるが、ホパテの騒動から9年が経過していた。

 厚生省はこの点について、「承認した当時は医療上の有用性が認められたが、その後の新たな薬剤やリハビリなど治療の進歩で、有用性が低下した」と意味不明の説明をした。

 平成9年のアバンの売上高は224億円で、武田薬品の製品中4番目の売り上げを記録していた。しかし再評価試験では、アバンの有効性が32.4%、偽薬の有効性が32.8%と、偽薬の有効性の方が高い結果になった。脳循環代謝改善剤の売上は8750億円で、当時は薬価と納入額の差、つまり薬価差益は病院の利益になっていたので、売上高8750億円は薬価ベースでは1兆円を超えていた。

 当時は、老人の自己負担がほとんどなかった時代である。そのため、これらの薬剤は患者、病院、製薬会社の誰も痛みを感じずに処方することができた。しかし国全体にとっては大損害であった。厚生省が脳循環代謝改善剤を無効とした平成10年頃は、ちょうど医療財政が悪化した時期で、厚生省は大蔵省から医療費削減を迫られ、仕方なく再評価を始めたのが実情であった。いずれにしても、効果のない認知症薬が何年も現場で使われていたことは、何ともお粗末なことである。

 厚生省は新たな再評価試験で、それまで有効としていた薬剤を、自らその有効性を否定したが、この決定はどのような理由であれ理解できないことである。医師は中央薬事審議会の決定を信じて薬剤を患者に処方している。昨日まで「きちんと内服しなさい」と指導していた医師が、まじめに内服していた患者が、混乱したのは当然のことであった。医師と患者の信頼関係を見えない形で悪くしたことは確かである。

 脳循環代謝改善剤を有効と判定した専門家、薬事審議会の委員、厚生省の担当官は、この承認取り消しをどのように受け止めたのか。感想を聞きたいところだが、彼らは何も語らず、誰も責任を取らず、何の反論も示さなかった。

 「承認した当時は、医療上の有用性が認められた」この文言は、「厚生省が承認したことも、承認を取り消したことも間違いではない」との理屈であった。しかしこのような非科学的論理が成り立つはずはなく、厚生省の単なる責任逃れとしか思えない。少なくとも、脳循環代謝改善剤の承認にかかわった権威者たちは、医師の良心に従ってこの矛盾を説明すべきである。

 一般薬として承認され、途中から劇薬に指定されたのは、副作用による「クロロキン」(昭和42年)や経口糖尿病薬(昭和50年)など極めて少ない。今回は薬効のない薬剤を中止したのである。しかもこれらの薬剤は海外では使用されず、日本では1兆円を超えるほど多用されていた。

 現在、抗認知症剤として使用が認められているのは、アルツハイマーの治療薬として開発された塩酸ドネペジル(アリセプト:エーザイ)である。しかもアリセプトは認知症を改善させるのではなく、その進行を緩和する薬剤である。アリセプトは日本で開発された薬剤であるが、平成9年に米国で、平成10年に欧州で認可され、日本で認可されたのはその2年後であった。

 ところで米国のレーガン元大統領は認知症となり、FDAが認可する前に特例としてアリセプトを内服していた。レーガンの認知症の発病はいつだったのか。それは大統領時代とうわさされている。

  なお文中において痴呆、認知症という言葉が混在しているが、平成16年の厚生労働省の用語検討会によって「認知症」へ言い換えが提案され、平成18年から使用が一般化されたので、文中の用語の混乱をお許し頂きたい。このことは平成14年から看護婦を看護師と呼ぶようになったことも同様である。しかしこれらは行政上の公平を重視した名称変更であり、一般人の使用においては制限されるものではない。