生体肝移植

生体肝移植 平成元年(1989年)

 平成元年10月26日、島根県出雲市にある島根医科大(現・島根大医学部)第2外科に、国立岩国病院(現・国立病院機構岩国医療センター)から杉本裕弥ちゃん(満1歳)が搬送されてきた。裕弥ちゃんは、先天性胆道閉鎖症という重病を患っており、肝移植以外に助かる方法がなかった。

 先天性胆道閉鎖症とは、肝臓から十二指腸に排泄される胆汁の通り道である胆管が、生後間もなく閉塞し、そのため胆汁が肝臓内に停留して肝硬変を引き起こす疾患である。

 先天性胆道閉鎖症は、1万の出生に1人の頻度で、日本では年間約100人の患者が生まれている。この疾患は手術によって胆汁を小腸に排泄させなければ、肝硬変から死に至ることになる。裕弥ちゃんは、胆管を小腸につなぐバイパス術を国立岩国病院で2回行っていた。しかしうまくいかず、肝硬変の状態になり腹水がたまっていた。

 その当時、脳死による臓器移植は、まだ認められていなかった。そのため裕弥ちゃんの生命を救うには、健康な人の肝臓の一部を切り取って移植する、生体肝移植しかなかった。欧米では、脳死患者からの肝移植は数千例を超えていたが、生体肝移植は脳死肝移植よりも歴史は浅かった。世界で脳死肝移植が初めて行われたのは、米国ピッツバーグ大のスターツル教授によるもので昭和38年のことであった。それに対し、生体肝移植は昭和63年にブラジルのサンパウロ大において、4歳8カ月の胆道閉鎖症の小児への移植が世界初例であった。その当時、生体肝移植は世界でまだ3例しか行われていなかった。もちろん、日本では誰も経験したことのない手術だった。

 島根医科大助教授・永末直文を中心とした医療チームは難しい選択を迫られていた。たとえ手術に成功しても失敗しても、健康人の身体にメスを入れて肝臓の一部を取ることに、倫理上の非難が予想されたからである。

 しかし裕弥ちゃんには移植以外に助かる道はなかった。裕弥ちゃんは、島根医科大に入院後、心不全を起こし何度か危篤状態に陥り、やっと回復したばかりである。そのような状況の中で、父親の昭弘さんが自分の肝臓を提供したいと申しでた。あとは永末医師が手術をやるかどうかの決断だけであった。

 平成元年11月13日午前9時40分、世界で第4例目、日本で初めての生体肝移植が、永末医師の執刀で始まった。裕弥ちゃんは以前受けた手術のため、肝臓と周辺の臓器との癒着が強かった。その癒着を丁寧に剥離し、肝硬変に陥った肝臓を摘出。そして父親の肝臓の一部を裕弥ちゃんに移植した。小さな命を救うための手術は深夜に及び、15時間45分の難手術だった。

 手術当日、NHKが正午のニュースで日本初の生体肝移植が現在手術中であることを報じ、これをきっかけにマスコミの過熱した報道が始まった。島根医科大は毎日記者会見を行い、裕弥ちゃんの病状を公表した。この記者会見は、それまで医学界が持っていた密室性と閉鎖性を打破するための情報公開であった。

 永末医師はテレビで病状を報告し、裕弥ちゃんの家族も手術を受けた気持ちを述べた。マスコミは「父親が子供に自分の肝臓を提供する美談」として、さらに「医師が、手術に応じた美談」として報道した。

 平成元年11月13日、杉本裕弥ちゃんの手術は成功したが、裕弥ちゃんには次々に難関が待ち構えていた。胆管の再閉塞、心不全、腹腔内膿瘍、消化管出血、サイトメガロ肺炎、移植の拒否反応…。いくつもの合併症が発生し、術後の裕弥ちゃんは一進一退を繰り返した。

 そして平成2年8月24日、残念なことに手術から285日目に多臓器不全を起こし、幼い生命のともしびが消えた。直接の死因は、輸血された血液に含まれるリンパ球が、裕弥ちゃん本人の組織を破壊するGVHD(移植片対宿主疾患)によるものであった。

 裕弥ちゃんの手術をきっかけに、生体肝移植が広く行われるようになった。移植技術の進歩と経験の蓄積により、小児だけでなく成人への生体肝移植も可能になった。

 平成2年6月、杉本裕弥ちゃんが生死をさまよっているころ、京都大医学部第2外科で国内第2例目の生体肝移植が行われた。その後は、信州大、東京女子医大、広島大など全国の施設で、生体肝移植が行われるようになった。平成15年までの手術件数は3800件を超え、生体肝移植患者の1年生存率は8割以上の成績となった。

 肝臓はほかの臓器と異なり再生能力が強いため、肝臓の半分を切り取っても、自然に再生して元の大きさに戻る。さらに親が肝臓を提供した場合、血液型が同じならば拒絶反応が少ない利点があった。移植以外にわが子を救う方法がないため、親心から自分の肝臓を子供に提供するケースが多かった。健康人の身体にメスを入れることに倫理的批判があったが、親からの申し出があれば問題はなかった。

 生体肝移植手術とは、文字通り生きている健康人の肝臓の一部を移植することで、脳死肝移植とは異なり「脳死、心臓死」の問題は生じない。その当時は脳死移植法案がまだ成立していなかったため、脳死からの臓器移植は困難で、そのため生体肝移植が普及した。ただし、脳死移植が認められている現在でも脳死肝移植は少なく、そのため生体肝移植が肝移植の大部分を占めており、「脳死なき移植」と呼ばれている。

 当初は、小児の先天性胆道閉塞症や肝硬変などが移植の対象疾患となっていた。その後、平成10年から15歳以下の肝疾患、16歳以上では胆汁うっ滞性ならびに代謝性疾患が保険適用となった。保険適応になったことから、手術の自己負担額も20万円前後と安くなり、1カ月当たり6万3000円を超えた医療費は、高額医療費として約3カ月後に払い戻された。

 海外では成人の肝硬変、劇症肝炎にも生体肝移植が行われ良い成績を残している。このように生体肝移植は有望な治療法であるが、誰でも移植を受けられるわけではない。肝臓提供のほとんどは、家族からの提供であった。

 成人の肝移植は健康保険の対象外になっていて、健康保険が使えなことから、自己負担は1000万円以上になることが多かった。しかし平成16年1月から、成人の生体肝移植も肝臓がんの一部で保険適応となった。肝臓がんで生体肝移植の保険適応となるは、がんの転移がなく、門脈や肝静脈へ浸潤がなく、大きさが5cm以下で1個、あるいは3cm以下で3個以内の場合である。生体肝移植の成人例は年々増え、現在では小児例を大きく上回っている。

 成人例が増えたのは、輸血などでC型肝炎ウイルスに感染している慢性肝炎患者が多くいるためである。肝硬変から肝臓がんへ移行した場合には、移植以外に根本療法はなかった。当初は、肝炎ウイルスによる肝硬変や肝がんは、肝臓を移植してもすぐにウイルス性肝炎を起こすとされ、肝移植の適応になっていなかった。しかしウイルスに感染しても、肝硬変になるまでには20年程度の期間があったため、現在では肝移植をためらう理由はない。

 生体肝移植を応用した特別な例として、生体ドミノ移植がある。ドミノ移植とは、いわば玉突き移植で、肝臓が分泌するたんぱく質の沈着で起きる難病「家族性アミロイド・ポリニューロパチー(FAP)」の患者に応用された。まず、FAPの患者に健康人の肝臓を移植し、その後、FAP患者から取り出した病気の肝臓を、第3の患者に移植するのである。FAPの肝臓を第3の患者に移植しても、たんぱく質がほかの臓器や神経に沈着してFAPを発病するには30年以上の時間がかかった。そのため肝臓を必要とする第3の患者にとっては当座をしのぐことができたのである。平成11年、肝臓ドミノ移植が京都大病院で初めて行われ、次第に症例が増えている。

 平成14年3月26日、自民党の河野洋平元外相(65)が、生体肝移植の手術を受けると表明。河野元外相は、村山、小渕、森政権で外相を務め、その激務から解放されたことを区切りに手術を受けることにしたのである。肝臓を提供したのは、長男である総務大臣政務官の河野太郎衆議院議員(39)であった。河野元外相はC型肝炎による肝硬変で、全身倦怠感を強く訴えていた。このまま放置すれば肝臓がんに進行する可能性があったため、移植を受けることになった。4月上旬に信州大医学部付属病院に入院して移植手術を受けた。

 生体肝移植手術の欠点は、肝臓提供者(ドナー)が健康人であり、その健康人にメスを入れる際に危険性を伴うことである。平成15年、京都大病院で肝臓の7割を娘に提供した女性が死亡する国内初の事例が発生している。

 肝臓提供の美談の裏には、隠された危険性があることを知る必要がある。生体肝移植には、臓器提供者の自発的な意思が絶対条件になる。親から子供へ、子供から親への生体肝移植は美談とされがちである。しかし、「肉親だから提供するのが当たり前」とする考えが、家族に精神的プレッシャーを与えることを忘れてはいけない。