栄養剤L−トリプトファン事件

栄養剤L−トリプトファン事件 平成2年(1990年)

 L−トリプトファンは必須アミノ酸のひとつで、大量に摂取しない限り、人体に害をもたらすことはない。むしろ体内での合成ができないことから、食事から摂取すべき不可欠のアミノ酸である。

 L−トリプトファンは、マグロ、カツオ、豚の赤身に多く含まれ、L−トリプトファンを薬剤として内服しても、人体に影響を及ぼすことはない。米国では健康食品ブームに乗って、L−トリプトファン製剤が15年以上にわたり栄養剤と同じように薬局で売られていた。

 野菜や果物だけを食べるベジタリアン、ダイエットを始めた女性、肉の摂取が少ない老人はL−トリプトファン不足になるとされ、サプリメントとして普及していた。L−トリプトファンは医師の処方せんを必要とせず、栄養補給食や乳児用流動食として、さらには不眠症、うつ病、多動性障害、自閉症など多くの病気に効果があるとされていた。

 平成元年の夏頃から、米国のオレゴン州・ミネソタ州を中心に原因不明の筋肉痛症候群の患者が出現した。筋肉痛症候群とは、白血球の1つである好酸球が増加し、筋肉の激しい痛み、四肢のむくみ、皮疹、倦怠感、呼吸困難などの症状をきたす疾患である。この筋肉痛症候群で、少なくても38人が死亡、5000人が発症している。

 米FDA(食品医薬品局)は、患者の聞き取り調査から、筋肉痛症候群の原因として健康食品L−トリプトファンに疑いを持った。全米の薬局や病院に注意を呼び掛け、製薬会社にはL−トリプトファンの回収を求めた。FDAは、原料を製造している日本の製造会社にも立ち入り調査を行った。製造会社は薬品を回収しながら、原因解明に取りかかった。

 米CDC(疾病対策センター)の研究者は、筋肉痛症候群を引き起こしたグループと無症状のグループについて、L−トリプトファンの銘柄や製造時期などを調べた。その結果、筋肉痛症候群の46例中、45例が昭和電工のL−トリプトファンを飲んでいて、さらに27種類のうち23種類(85%)の製造時期が前年の1月から5月に集中している。

 この疫学調査から、FDAは「L−トリプトファン自体に問題があるのではなく、日本のメーカーが製造したL−トリプトファンの一部に不純物が混入したか、材料の変質によって起きた」と結論づけた。

 当時、昭和電工のL−トリプトファンは米国市場の6〜7割を占め、昭和電工は「統計的にわが社の製品にたどりつくのは仕方ないことで、わが社としても一刻も早い原因究明を期待している」と述べた。

 昭和電工は、細菌の発酵作用によってL−トリプトファンを製造していたが、昭和63年12月から平成元年6月にかけて、製造方法を変更していた。つまり遺伝子組み換えによって、細菌からL−トリプトファンを製造する方法に変えていたのである。そしてその工程で、細菌由来の不純物が混入して、筋肉痛症候群を引き起こしたのだった。

 昭和電工によって製造されたL−トリプトファンから60近くの不純物が検出され、そのうち他社製のL−トリプトファンに含まれていない2つの不純物タンパクが、筋肉痛症候群の原因とされた。それは人類がこれまで内服したことのない物質だった。

 米国FDA(食品医薬品局)は、商標としてL−トリプトファンの製品名を付けるには、L−トリプトファンの含有率のみを規定していた。昭和電工のL−トリプトファンは99.65%の含有率で、FDAのL−トリプトファン品質基準である98.50%をクリアしていた。つまり品質基準は満たしていたが、ごく微量の不純物が筋肉痛症候群を引き起こしたのである。このことは予想外のことで、栄養補給食を管理するFDAの責任が問われることになった。

 遺伝子工学によるL−トリプトファンの製造過程で微量の不純物が生じたことが原因であったが、FDAがその発表を故意に遅らしていた。つまりFDAは生命工学産業への影響を避けるために、情報公開を遅らせたのであった。このことから、健康を守るFDAの役割に厳しい目が注がれることになった。

 不純物が混入して38人が死亡したL−トリプトファン事件は、新しい科学技術である生命工学や遺伝子工学が、いかに危険であるかを示した。米国内では100件を超す損害賠償訴訟が起き、昭和電工はPL法(製造物責任法)の先進国である米国で勝訴は困難と判断して、和解交渉を進めた。結局、昭和電工は和解金として2052億円を払い、患者のほとんどは同社と和解した。

 昭和電工は新潟水俣病を引き起こした会社で、新潟水俣病が一段落ついた後のL−トリプトファン事件であった。この事件の和解金は、新潟水俣病で支払った金額の約10倍に達し、その代償はあまりにも大きく、昭和電工は一時経営不振に陥った。

 厚生省は、L−トリプトファンを含む健康食品や医薬品を作っている国内5社に対し、関連商品を自主的に回収するように指示。さらに原因究明のための専門委員会を設置した。健康食品の安全性が問われるのは、ゲルマニウム含有食品以来のことであった。しかし日本ではL−トリプトファンは一般に発売されていなかったので患者はほとんどいなかった。

 遺伝子組み換えは、世の中の流れである。遺伝子組み換えによって、トマト、メロン、米などの新しい作物がすでに日本の食卓に顔を出している。これらの作物は、新たなタンパクを含まないとされているが、何が起きるか分からないのが遺伝子工学である。今回の被害者は遺伝工学の被害者ともいえた。