東大タリウム毒殺事件

東大タリウム毒殺事件 平成3年(1991年)

 平成3年2月14日、東京大医学部付属動物実験施設の技官・中村良一さん(38)が入院先の病院で死亡。中村さんは主治医に「同僚から毒を盛られたかもしれない」と訴えていた。

 死亡する2カ月前に、中村さんは体調不良を訴えて形成外科を受診。手足のしびれと全身の痛みから多発性神経炎と診断されて入院となった。中村さんの症状は入院しても改善せず、歩行も困難になった。さらに不眠、脱毛、食欲不振、幻覚、激しい腹痛を繰り返し死亡した。

 主治医は、中村さんが言った「毒を盛られた」という言葉にまさかと思ったが、単なる病死とも考えられず警察に連絡、司法解剖が行われた。その結果、遺体のつめと髪から高濃度の酢酸タリウムが検出された。中村さんは、彼自身が予想していたように、何者かによって劇薬・酢酸タリウムを飲まされていたのだった。中村さんの症状は、典型的な酢酸タリウムの中毒症状であった。

 酢酸タリウムは、細菌培養の際のカビ防止剤として用いられ、動物実験施設では薬品庫に常備されていた。酢酸タリウムは無味無臭で水に溶けやすいことから、お茶やコーヒーに混入させて飲ませることは簡単だった。酢酸タリウムの致死量は1グラムで、毒物ではあるが青酸カリのような即効性はなく、徐々に体調を崩していった。そのため犯人の目星が付けにくかった。

 中村さんに自殺の動機はなかったが、東京大医学部で殺人事件が起きたとも考えられず、中村さんが入院保険金目当てに酢酸タリウムを飲み、その量が多すぎたとうわさされた。

 中村さんは都内の私立高校を卒業し、動物飼育関連の会社に勤め、アルバイトで東京大の動物実験施設で働いているうちに正職員として採用された。東京大学の職員であったが仕事は裏方で、研究者たちが使う動物の飼育や実験の後片付けなどであった。

 動物実験施設ではアルバイトを含め10数人が働いていたので、他殺ならば犯人はこの中の1人とされたが、犯人逮捕まで約2年半かかった。平成5年7月22日、殺人容疑で逮捕されたのは上司の技官・伊藤正博(44)だった。伊藤正博は、中村さんより半年早く採用され、中村さんの上司であったが2人の仲は悪かった。

 中村さんは人付き合いが悪く、態度はぶっきらぼうで、職場の旅行や行事には参加せず、職場を事務所代わりに中古車販売のブローカーをしていた。一方、伊藤正博の性格はまじめで、伊藤は中村さんに中古車販売のバイトをやめるように何度も注意していた。それでも中村さんは反抗的な態度を改めず、伊藤は不快な気持ちを募らせていた。

 この事件が起きるおよそ半年前にも、同じような事件が起きていた。中村さんが使っているコーヒー豆の缶に酢酸タリウムが混入されていたのだった。このときには、中村さんが異常に気付き騒ぎになったが、結局は悪質ないたずらとされ、警察ざたにはならなかった。このときの犯人も伊藤正博であったが、彼はこの失敗を生かし、次の毒殺のチャンスを待っていた。そして平成2年12月12日、コーヒーを飲んでいた中村さんを館内放送で呼び出し、そのすきに飲みかけのコーヒーに酢酸タリウムを入れたのである。

 東大タリウム毒殺事件はマスコミが疑惑を騒ぎ立て、報道が先行する展開となった。伊藤正博(44)は捜査当局から再三呼び出されたが、犯行を否認していた。しかし約2年半後「被害者の体内から検出されたタリウムと、伊藤が管理していたタリウムの成分が一致する」との鑑定が出た。この鑑定結果を突き付けられ、伊藤は犯行を自供した。

 平成7年12月19日、東京地裁の金谷暁裁判長は「劇薬を飲ませる犯行は卑劣で、学問の府での犯行は重大」と述べ、懲役11年の実刑判決を言い渡した。伊藤正博は上告したが、最高裁は1審の判決を支持して刑が確定した。

 この東大タリウム毒殺事件をめぐり、中村さんの遺族3人が国を相手に9900万円の損害賠償を求める裁判を起こした。平成14年4月15日、東京地裁の山名学裁判長は、「2人の間にトラブルがあった事情を十分に調査せず、劇薬の管理に不備があった」として国に約6600万円の支払いを命じた。東大側は、「事件は予測できなかった」と主張したが、「事件が起きる前にも、中村さんのコーヒー豆に毒物が混入された事件を東大は把握しており、職員の生命を守る配慮を怠った」として、東大に賠償責任ありとした。

 タリウムを用いた事件は、昭和56年に福岡大病院でも起きている。この事件では検査技師7人が中毒となり3人が入院した。吐き気、嘔吐、末梢神経障害、脱毛などの症状を示し、尿からタリウムが検出された。7人の検査技師が、同時に発症していることから、犯人は同じ職場の者とされた。検査技師7人は同じ休憩室を使っていたため、休憩室を中心に捜査が行われ、コーヒーの砂糖瓶の底からタリウムを検出。さらに検査技師7人の症状と砂糖の使用量に相関関係が認められた。

 やがて同僚の検査技師(33)が、重要参考人として福岡県警の取り調べを受けることになった。しかし事情聴取の前日、「自分は無実で、真犯人を知っている」という遺書を残して自殺。そのため真相は不明のままとなった。

 平成17年12月30日、静岡県警三島署は静岡県伊豆の国市の県立高校1年の女子生徒(16)を殺人未遂容疑で逮捕した。同年8月頃から、ネズミの駆除用に使用するタリウムを母親(47)に飲ませ、母親は意識不明の重体になっていた。

 女子生徒は高校の化学部に所属し、自宅の部屋には30種類の薬品が置いてあった。ネズミの駆除薬として女子生徒は薬局からタリウムを入手し、自分の母親に飲ませ、インターネットのブログに母親の苦しむ様子を書きつづった。この事件には、悪魔のような異常性を感じるが、犯人が16歳だったことから、事件の詳細は伝えられていない。このように高校生でも容易にタリウムを買えたのである。

 タリウムは1グラムで人間を殺せる毒物である。タリウムの名前は、「新緑の若々しい小枝」を意味するギリシャ語「THALLOS」に由来するが、このTHALLOSはもともと、美、優雅、花盛りを象徴するギリシャ神話の女神タレイアの名前が語源になっている。

 タリウムを用いた殺人事件は、海外ではアガサ・クリスティの「蒼ざめた馬」が有名である。「蒼ざめた馬」には女同士がけんかをする場面があり、髪をごっそり引き抜かれたのに平気な様子を見せていた女性が、1週間後に死亡している。このように無痛性の脱毛があれば、タリウム中毒を疑うべきである。東大タリウム毒殺事件の犯人・伊藤正博は、もちろん「蒼ざめた馬」を読んでいた。