手塚治虫死去

 マンガの神様といわれた手塚治虫(本名:手塚治)は、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ジャングル大帝」など多くの作品を描き、戦後のマンガ界に大きな足跡を残し、後に続くマンガ家たちに大きな影響を与えた。その手塚治虫が、平成元年2月9日午前10時50分、胃がんのため東京都千代田区麹町の半蔵門病院で死去。享年60であった。
 手塚治虫の人生は、彼の遺した700点にも及ぶ作品や50万枚の原稿用紙の重さに比べれば、あまりに短かった。手塚治虫死亡のニュースを受けて、多くの雑誌や週刊誌などが特集を組み、テレビのワイドショーでは長時間の特別番組が放映された。
 手塚治虫はマンガ家の巨匠であるが、大阪大医学部を卒業した医師でもあった。その意味では、日本で1番有名な医師といえる。もっとも、医師免許を持ってはいたが、医学生の時からマンガ家を目指していたため、患者を診察したことはほとんどない。
 昭和3年11月3日、手塚治虫は大阪府豊能郡豊中町(現豊中市)で生まれ、幼少時は兵庫県川辺郡小浜村(現宝塚市)で育った。彼の家は裕福で、父親は当時としては珍しかったカメラや映写機が趣味であった。当時撮られたフィルムには、手塚が庭のブランコに乗って遊んでいる姿が納められている。
 新しい物好きの父親の本棚には、一般書に混じって当時としては珍しいマンガ本があり、この父親の趣味が手塚に大きな影響を与えた。また母親も理解のある優しい人で、ピアノが趣味で、寝つきの悪い手塚に本を読んでくれた。また本のページの端にパラパラマンガを描いて見せてくれた。
 幼いころの手塚治虫は背が小さく、運動オンチで天然パーマだった。そのため「ガチャボイ」とあだ名を付けられたが、現在のような陰湿なイジメはなく、からかわれる程度だった。絵がうまく、誰からも好かれていた。
 少年時代に田河水泡の「のらくろ」を愛読、海野十三の小説にも夢中になった。小学校2年生のころからマンガを描き、ガリ版に刷って友人に配っていた。マンガや絵以外では、昆虫採集に夢中になり、自分で昆虫図鑑を作っていた。実物大で描かれた図鑑は、写真と見間違うほど上手に描かれていた。その時の有名なエピソードとして「いい赤がないので、自分の指から血液を採って絵の具の代わりにした」というのがある。
 「治=オサム」という本名が、ペンネーム「治虫=オサム」になったのは、昆虫採集に夢中になり「オサムシ」とあだ名を付けられていたからで、このペンネームは、小学5年生の時から使われいた。中学時代には、すでに「ヒゲオヤジ」が登場するマンガを描いていた。旧制高校時代には、学徒動員により軍事工場で働いていたが、トイレでマンガを描いていた。戦争中はマンガ自体が認めらず、隠れて描いていたが、それでも描き貯めた原稿は3000枚以上になっていた。
 昭和20年、終戦の年に大阪帝国大付属医学専門部に入学。翌21年1月には4コママンガ「マアチャンの日記帳」を少国民新聞(後の毎日小学生新聞)に連載して、マンガ家としてプロデビューをはたした。医学部の授業は階段式の講堂で行われていたが、手塚は講堂の1番後ろで、講義を聴きながらマンガを描いていた。
 昭和22年、手塚治虫は少国民新聞に漫画を連載しながら、長編マンガ「新宝島」を出版した。それまでのマンガは数ページのものであったが、「新宝島」は100ページの以上の長編で、映画のようなストーリーを持ち、しかも映画では表現できないシーンを描いていた。「新宝島」は従来のマンガの枠を破ったもので、新しい手法によって、本格的マンガとして40万部を売るベストセラーとなった。
 昭和25年に「ジャングル大帝」を「漫画少年」に連載して、医学生とマンガ家の2足のわらじをはくことになる。授業中もマンガばかり書いていたため、単位が取れず1年留年している。昭和26年に大阪大医学部を卒業すると、1年間のインターンを経て医師国家試験に合格するが、すでに人気漫画家としての地位を築いていた。担当教授は手塚を呼び出し「君は医者になっても、患者のためにならないから、マンガ家になりなさい」と忠告している。手塚は母親に相談するが、母親は「あなたの本当にやりたい道を進みなさい」と言ってくれた。当時、医師の社会的地位は高く、マンガ家の地位は低かった。そのような時代であったが、手塚は医師の道を捨て、マンガ1本でいくことを決めた。
 昭和27年には「鉄腕アトム」を「少年」に連載。アトムは原爆を想像させる単語であったが、その当時は「原子力を科学技術の象徴」としており、原子力の言葉に国民のアレルギーはなかった。
 手塚は漫画家として不動の地位を築き、「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」などの話題作を次々に発表した。これらの作品は、「ストーリーマンガ」という新しい分野をつくり、藤子不二雄、石ノ森章太郎など次世代のマンガ家に影響を与えた。
 昭和27年に東京に進出し、翌28年には後に有名になる「トキワ荘」に住んだ。部屋は4畳半でトイレは共同であったが、「トキワ荘」には赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが入居してきて、トキワ荘は若手マンガ家の拠点となり、「マンガ界の梁山泊(りょうざんぱく)」と呼ばれ、活気あふれるマンガ発信地となった。
 昭和30年には、「リボンの騎士」がラジオの連続ドラマとして放送され、昭和34年に手塚は「幼なじみ」の岡田悦子さんと結婚、渋谷区代々木に新居を構えた。このようにマンガ家の道を歩んでいたが、昭和36年には奈良医大の安澄権八郎教授の指導で、「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」で医学博士の学位を得ている。また同年、アニメの製作のために東京手塚動画プロダクション(後の虫プロダクション)を設立、翌年には日本で初めての連続テレビアニメ「鉄腕アトム」を製作した。「鉄腕アトム」の視聴率は最高40.3%、平均25%と驚異的な高さで、半年後には欧州でも放映された。
 さらに大人のためのアニメ「千夜一夜物語」など、多数の作品を世に送り出した。当時のスタッフは十数人で、すべてが初めての試みだったため、過労死のスタッフが出たほどである。手塚が生み出した数々のアニメのレベルは高く、日本アニメの基礎を築いた。
 虫プロダクションのアニメの仕事は拡大し、手塚治虫は連載を同時に13本も抱えるほどであった。毎日のように徹夜が続き、眠っているのを見たことがないと言われた。ところがファンクラブやテレビ局とのトラブルが続き、また経営難から、昭和48年に虫プロは倒産となった。「アニメは、金のかかる恋人」と手塚が言ったように、採算性を考えずに質の高いアニメにこだわったことが倒産を招いた。しかし虫プロ倒産の年に、手塚は不死鳥のようによみがえった。医師を主人公とした「ブラックジャック」を「少年チャンピオン」に連載。さらに、「三つ目がとおる」「火の鳥」「ブッダ」といった歴史に残る名作を生みだし、第2の頂点を迎えることになった。「火の鳥」には宗教的、かつ哲学的な宇宙観が描かれ、読者が読みたいと思うストーリー性があり、しかも知らず知らずに読者を啓蒙(けいもう)する思想性があった。
 当時のマンガ家の作品はワンパターンが多かったが、手塚は作風を時代に合わせ変えていった。初期のマンガは子供に夢を与える可愛い絵柄が中心であったが、次第に劇画調になり、性描写を描いたりもした。またそれまでのマンガ家は、1人でコツコツ描いていたが、手塚はアイデアとストーリーを自分で考え、マンガの主だったところを描き、バックの柄や雨の降り方、道に生えている草などを番号でパターン化し、アシスタントに数字で指示を出す方法を生み出した。
 手塚はマンガ家・アニメ作家として世界的巨匠となり、国際的な賞を数多く受賞している。週刊文春に連載した「アドルフに告ぐ」は、ヒトラーのユダヤ人説を題材に描いたもので、そのストーリー性の巧みさが評判となった。しかし、いつしか病気(胃がん)が彼の身体をむしばみ、昭和63年に入院することになったが、入院中もベッドの上で最後の作品となる「アドルフに告ぐ」を描いていた。
 「手塚治虫漫画全集」(講談社、全400巻)は個人の作品集としては世界一の巻数で、ギネスブックにも載っている。現在、日本の貿易は原料を輸入し、製品を輸出することで黒字となっているが、特許料などの知的分野は赤字である。しかし知的分野において、マンガ・アニメだけは黒字である。このように世界中に輸出されている日本のマンガやアニメの基礎をつくったのが手塚治虫である。手塚は医師として患者を治す道を選ばなかった。しかし戦後のすさんだ人々に夢を与え、徹底したヒューマニズムを教えてくれた点では、偉大な医師だったといえる。