安部公房の死

安部公房の死  平成5年(1993年)

 平成5年1月22日、東京大医学部卒で作家の安部公房(あべ・こうぼう)が急性心不全のため東京都多摩市の日本医科大多摩永山病院で亡くなった。安部公房は、その前年の12月25日、脳出血で倒れ、自宅で療養しているところだった。享年68。

 大正13年3月7日、安部公房は東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)で生まれた。父親が満州医大に勤務していたため、1歳のときに満州に渡り、奉天(現在の瀋陽)で育った。同市の小中学校に通いながら、家ではポーやドストエフスキーの小説を熱心に読んでいだ。清朝滅亡後の無政府状態に近い満州で過ごしたことが、それまでの日本の伝統的小説とは異なった作風をもたらした。

 昭和15年に奉天第二中学校を卒業すると、帰国して旧制成城高等学校(現・成城大)で学び、昭和18年10月に東京帝国大医学部に入学。高校、大学では、軍事教練に嫌悪感を覚えながら、ニーチェ、ハイデガー、リルケなどを読み、文学への志向を強めていた。

 昭和19年の20歳のとき、文科系学生の学徒出陣を見て、医学生もいずれ出陣することになると考え、「重度の肺結核」と偽の診断書をつくり大学を休学。父親がいる満州の奉天に帰り、そこで終戦を迎える。

 当時、奉天では発疹チフスが流行していて、開業医として治療に当たっていた父親は、終戦直後に発疹チフスで病死。昭和21年、引き揚げ船で帰国すると、安部公房は北海道の祖父のもとに身を寄せた。その後、昭和22年に東大に復学し、同年、女子美術専門学校(現、女子美術大)の山田真知子と学生結婚。このころから小説を書き始め、処女長編「粘土塀」を成城高校時代の恩師阿部六郎に持ち込んでいる。

 阿部六郎が「粘土塀」を評論家の埴谷雄高に紹介し、翌23年2月の月刊誌「個性」に掲載された。安部公房が本格的に文学活動を始めたのは、これ以降のことで、同年、医学部を卒業したが医師国家試験で不合格となると、医師への道を絶っている。

 昭和25年、「赤い繭」を発表し、その年の第2回戦後文学賞を受賞するとともに、新人作家として高く評価された。昭和26年には「壁—S・カルマ氏の犯罪」で第25回芥川賞を受賞し、多くの読者を得た。昭和29年に「飢餓同盟」、昭和32年に「けものたちは故郷をめざす」を書き、戦後文学の代表的作家となった。

 昭和37年には「砂の女」で第14回読売文学賞を受賞。「砂の女」は、砂に埋もれた集落の一軒家に閉じ込められた男が、そこから脱出しようとする孤独な戦いを描いた小説である。戦後の前衛文学の代表として高い評価を受け23カ国で翻訳され、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞した。さらに映画化(岸田今日子主演、勅使河原宏監督)され、昭和39年の第17回カンヌ映画祭では審査員特別賞を受賞している。その後、昭和42年に「人間そっくり」、昭和47年に「棒になった男」、昭和48年に「箱男」を書いた。

 安部公房の小説は、ストーリーを楽しむよりも、戦後世界の疎外感と自由を問うものであった。彼の小説は難解とされるが、それは小説にストーリーを求める日本人の癖によるもので、現実を越えた内容が多いが、読みにくいことはない。

 人間の生死、政治的不安、人間存在の不安、安部はこのような不安定な存在をテーマにしていた。疎外された現実を混沌(こんとん)の中で認識させる知的な世界であった。個人の存在を、自らの困惑、揺れる感情、ふらつく思考の中で展開させ、認識させるものである。安部の本を持っているだけで、知的なイメージがあった。

 安部公房の作品は国際的に高く評価され、日本よりも海外で有名であった。川端康成、三島由紀夫、大江健三郎などの作家も海外では有名だが、彼らは日本文学の枠の中にあったが、安部公房の世界は国際的であり、彼の作品は世界的レベルで読まれていた。

 安部公房の文学は、「カフカ」に匹敵すると評価され、特にフランス、ロシアで高い評価を得て、ノーベル賞候補にも挙げられていた。医学部を卒業した作家の中で、彼ほどの有名人はいないが、その安部公房も時代とともに忘れ去られようとしている。