ヘリコバクター・ピロリ菌

 ヘリコバクター・ピロリ菌 平成5年(1993年)

 平成5年、世界保健機関(WHO)の外部組織である国際がん研究機関(IARC)が、ヘリコバクター・ピロリ菌を発がん性クラス1に分類した。ヘリコバクター・ピロリ菌と胃がんとの関係が完全に解明されたわけではないが、発がん性クラス1は「ヒトに対して発がん性が確認されている87種類の物質のこと」であった。

 ところでピロリ菌が最初に注目されたのは胃潰瘍との関係だった。胃潰瘍は、胃酸過多やストレスが原因とされていたが、昭和50年代後半からピロリ菌の関与が注目されてきた。ピロリ菌が難治性の胃潰瘍の原因とされ、抗生剤でピロリ菌を取り除けば、胃潰瘍の再発率が大幅に減じることが分かったのである。 それまでは細菌感染によって胃潰瘍が生じるという発想がなかった。胃は強酸の胃液を出しているので、細菌が住めるはずはないと思い込んでいた。

 昭和54年、オーストラリアのロイヤル・パース病院の病理専門医、ロビン・ウォーレン(32)によってピロリ菌が発見された。ウォーレンが慢性活動性胃炎患者の胃粘膜に、らせん状のピロリ菌を発見、ピロリ菌は通常のヘマトキシリン・エオジン染色では染まりにくいため、長い間見逃されていた。ウォーレンは鍍銀(とぎん)染色によって、胃炎周辺にピロリ菌が多数いることを見出したが、当時、この菌が胃潰瘍の原因になるとは思っていなかった。

 昭和56年、内科研修医のバリー・マーシャルが、ウォーレンのピロリ菌の研究を手伝うことになった。その研究の過程で、ピロリ菌は単に胃に住みついているだけでなく、毒素をだして胃粘膜を傷つけ、胃炎や胃潰瘍を起こしていると考えるようになった。

 そのため、胃炎患者の承諾を得て、抗生物質のテトラサイクリンを2週間投与したところ、腹痛の症状と内視鏡所見が改善した。しかしピロリ菌と胃潰瘍の関係を証明することは困難であった。ある細菌がある病気の原因であると証明するには、コッホの4原則が必要だった。コッホの4原則とは、1.その病気のすべての患者にその細菌がいること2.その細菌はほかの病気の患者にはみられないこと3.患者から分離した細菌を別人に投与すると同じ病態が現れること4.同じ病気を引き起こした別の個体からも同じ細菌が証明できること、の4条件を満たさなければならない。

 ウォーレンとマーシャルは、ピロリ菌の分離培養を繰り返したが、すべて失敗していた。しかし、昭和57年4月14日に幸運が訪れた。それはイースター(復活祭)で4日間の休暇となったため、細菌が5日間培養されたままになり、その結果、細菌が増殖したのだった。通常の細菌は2日間で増殖するため、それ以上の長期培養を行っていなかったのである。

 5日間の培養で姿を現した細菌を調べると、まさにこれまで報告されていなかった細菌であった。昭和59年、ウォーレンとマーシャルは、「胃炎と消化性潰瘍患者にみられる未確認の湾曲した細菌について」の論文を英国の医学誌「ランセット」に発表。その論文で、彼らは十二指腸潰瘍で100%、胃潰瘍で77%、胃炎で55%に、この菌が見いだされ、さらに抗生剤で除菌が可能であるとした。

 ヘリコバクター・ピロリ菌(Helicobacter pylori)のヘリコはヘリコプターのヘリコと同じギリシャ語の「らせん」を、バクターは「バクテリア」(細菌)を意味していた。ピロリは胃の「幽門」(出口)を示し、この菌が胃の幽門近くから多く見つかったことに由来している。

 強酸の胃の中では通常の菌は生存できないが、ピロリ菌は例外であった。ピロリ菌はウレアーゼという酵素を産生し、この酵素が胃の中でアンモニアをつくり胃酸を中和していた。ピロリ菌は自分の周囲だけを中性にして、強酸の胃の中で生きていたのだった。またピロリ菌はべん毛を持ち、べん毛を回転させて移動することができる。胃の中は部位によって酸度が違うので、ピロリ菌は酸度の低い部位に移動しながら生活していた。

 昭和59年7月、マーシャルは培養したピロリ菌を自ら飲む実験を行い、その結果、1週間後に腹痛を感じ、10日後の内視鏡検査でピロリ菌と急性胃炎を見いだした。同じようにウォーレンもピロリ菌を飲み、5日目に胃の組織からピロリ菌を検出し、慢性胃炎を確認した。2人はピロリ菌の功績で平成17年度のノーベル生理学、医学賞を受賞している。

 彼らの人体実験が証明したように、ピロリ菌は経口感染し、さらに歯垢(しこう)、唾液、便からもピロリ菌が検出され、感染ルートは意外に多いことがわかった。ピロリ菌が発見されるまで、内視鏡で正常といわれた健康人が1週間後に胃潰瘍で入院することがあった。当時は、内視鏡を行った医師が胃潰瘍を見逃したとされたが、それは内視鏡に付着したピロリ菌が健康人に感染したからであった。

 その後の追跡調査により、内視鏡によるピロリ菌の感染率は4割とされている。ピロリ菌の感染が知られるようになり、内視鏡はきちんと消毒されるようになった。

 ピロリ菌の感染率は国によって差がある。日本では40歳以上の成人の感染率は約70%で、小児で10%。全体では5割程度の人が感染している。おしなべて、先進国での感染率は20〜30%、発展途上国は約80%とされている。

 日本で高齢者の感染率が高いのは、かつて日本の衛生状態が悪かったからとされている。さらに一度感染すると、長期間住み続けるためである。ただ、日本人全体の約50%が感染しているのに、胃潰瘍を発病するのがごく一部であることが、ピロリ菌の謎とされている。体質の違い、菌株の違いなどの関与が推測されている。

 ピロリ菌が胃潰瘍を引き起こすメカニズムとして、ピロリ菌が出す毒素によって粘液細胞の中にすき間ができる「空胞化毒素説」。ピロリ菌の出すアンモニアが直接粘膜を傷つける「アンモニア説」。ピロリ菌の感染によって集まってきた好中球が活性酸素を出して粘膜を破壊する「活性酸素説」。ピロリ菌が直接粘液細胞を壊してしまう「粘液細胞直接障害説」などがある。もちろん、これらのメカニズムが複合的に作用している可能性が高い。

 現在ピロリ菌感染の有無は、内視鏡で胃の組織を直接調べる検査、内視鏡をしない検査(迅速ウレアーゼ試験、血清抗体法、尿素呼気試験など)によって調べられる。

 平成12年11月、胃潰瘍と十二指腸潰瘍について、ピロリ菌の除菌が保険で認められ、再発を繰り返す難治性潰瘍の改善がみられている。ピロリ菌の除去は、制酸剤と抗生物質の同時投与法が用いられ、制酸剤(プロトンポンプ阻害剤)は胃液の酸性度を下げ抗菌薬が効きやすい環境をつくるためである。さらに制酸剤としてのランソプラゾール、抗生物質としてのアモキシシリンとクラリスロマイシンの組み合わせが一般的である。

 3剤併用療法による除菌率はおよそ70〜90%で、残りは除菌できないが、除菌できないのは耐性菌の存在が考えられている。国内の臨床試験では、除菌者の1年後の胃潰瘍再発率は2割未満、非除菌者の再発率は約7割である。

 ピロリ菌は世界中で研究が進められ、最近ではピロリ菌と胃がんの関係が浮かび上がっている。その関係は、たばこと肺がん、C型肝炎ウイルスと肝がんと同じように位置付けられ、国際がん研究機関(IARC)はピロリ菌を発がん物質と認めている。

 ピロリ菌感染者が胃がんになる率は非感染者の6倍とされている。ピロリ菌によって慢性胃炎が萎縮性胃炎になり、萎縮性胃炎が胃がんを誘発するためとされている。ピロリ菌の除菌が胃がん予防になるかどうかはまだ不明であるが、可能性はないとはいえない。

 ピロリ菌が発見されたのは約30年前だが、1万年以上も前から人間と共生していたことが分かっている。ニューヨーク大の研究チームが、欧米人と南米先住民のピロリ菌の遺伝子を比較し、その解析からピロリ菌は1万1000年前のヒトにも存在していたとしている。ピロリ菌は昔からヒトの胃の中で暮らし、ヒトとともに移動し、共存していた。人類にとって古い友だちであった。