コンスタンチン君救命リレー

コンスタンチン君救命リレー 平成2年(1990年)

 平成2年8月20日、ソ連のサハリン州で3歳の坊やが、自宅で洗濯のために沸かしていたバケツの熱湯をかぶり、全身の80%に及ぶ大やけどを負った。この生死にかかわる大災難に遭ったのは、州都ユジノサハリンスク市に住むコンスタンチン君である。

 市内の病院に入院したが、医師たちは治療をあきらめていた。母親のタリーナさん(26)は看護婦で、地元の医療の限界を知っていた。そのため、彼女は医療先進国の日本で治療ができないかと考えた。

 ちょうど、札幌から出張でサハリンを訪れていた電子ポスト社の山中新社長(50)が、偶然この話を聞いた。そして山中氏は、北海道庁国際交流課に何とかならないかと電話を入れた。電話を受けた国際交流課の係長は、まず外務省に連絡。外務省の返事を待つ一方で、サハリン州のフョードロフ知事に「北海道の横路孝弘知事あてに正式な救援要請をするように」と連絡を入れた。フョードロフ知事はモスクワの許可を取らず、すぐに返事を出した。「熱湯を浴びて大やけどをし、あと70時間しか生きられない3歳の男児を治療してほしい」と横路知事あてにテレックスを打ったのである。

 27日午後2時すぎ、北海道庁は外務省や海上保安庁と協議し、パスポートなしの入国許可を決定。要請から8時間半後に、サハリン州のフョードロフ知事に救援承諾の意思を伝えた。翌28日午前3時40分、深夜の千歳空港から札幌医大の金子正光教授ら医師4人、パイロット2人、整備士や通訳など計13人が海上保安庁のYS−11機に乗り込んだ。電話を受けてから17時間が経過していた。YS−11は、宗谷海峡で夜明けを迎え、午前6時42分に濃霧のユジノサハリンスク空港に着陸した。

 コンスタンチン君と父親のイーゴリさん(26)を乗せると、YS−11は直ちに北海道へ引き返した。機内ではすぐに治療が開始された。包帯を取ると、コンスタンチン君の皮膚の熱傷は感染症を合併していた。札幌の丘珠空港に着くと、そこからは防災救急ヘリコプターで札幌医大病院に搬送、すぐに集中治療室に収容した。事故から8日が経過していて」、救命できるかどうか予断を許さない状態だった。

 コンスタンチン君の皮膚は緑膿菌に感染していて、敗血症による多臓器不全を引き起こしていた。熱傷と死亡率は、熱傷面積に比例する。熱傷80%ならば死亡率は8割、90%では死亡率は9割とされている。

 コンスタンチン君は80%の熱傷で、つまり死亡率8割であった。コンスタンチン君を救うために、医師たちの懸命の治療が続いたが、治療には遺体からの皮膚移植が必要だった。札幌中の病院に皮膚の提供を頼んだが、提供者の遺族の了解が取れなかった。父親のイーゴリさんは、自分の皮膚を使ってくれと懇願したが、生きている人間から皮膚は取れなかった。

 翌日の夕方、東京の救急病院から皮膚提供者の遺族からの了解を得たと連絡が入った。30日、皮膚が届くとすぐに手術となった。金子教授の執刀により、コンスタンチン君の感染した患部が取り除かれ、提供された皮膚が移植された。

 移植は全身の35%に行われ、3時間50分に及ぶ手術は成功した。その後も3度の手術を行い、やけど部分の80%を移植し、生命の危機は遠のいた。日本のマスコミは、連日のように報道を繰り返し、激励の手紙や電話、花束、千羽鶴、見舞金などの支援が広がった。

 コンスタンチン君は回復し、父親のイーゴリさんは「本当に心から感謝している。言葉ではとても言い表せない」と声を詰まらせた。遅れて来日した母親のタリーナさんも「息子の命を救っていただき、心からお礼を言いたい」と頭を下げた。

 一方、入院中に片言の日本語を覚えたコンスタンチン君は、ちゃめっ気たっぷりで、愛きょうを振りまき、日本中の人気者になった。そして「コンスタンチン君を救おう」との全国的な募金活動が行われ9000万円が集まった。

 募金の中から、医療費・両親の滞在費、帰国費などを差し引いた8000万円で日ソ医療交流基金が設立された。この基金によってサハリンと北海道とで、毎年医療技術の交換会が開催されることになった。

 大やけどを負ったコンスタンチン君が、北海道で治療を受けた当時は、世界は冷戦のまっただ中で、日本とソ連とは対立関係にあった。日本の飛行機が、北方領土近くを飛ぶだけで、ソ連のミグ戦闘機がスクランブルをかけてくる時代だった。昭和58年には国境を越えた大韓航空機が撃墜される事件が起きている。

 このような時代、国境を越えた救出劇に、人々は東西緊張緩和の夢を膨らませた。ソ連のテレビは、その日のうちに緊急ニュースで日本の救命リレーを放映し、ソ連の新聞各社も大々的に報道を繰り返した。そして日本の救命リレーに感謝の記事を書き、日本の善意とヒューマニズムが政治を超えたと称賛した。

 ちょうど来日したシェワルナゼ・ソ連外相は、9月5日の中山太郎外相主催の晩さん会で「貴国における思いやりの行動が、私たち国民の心を深く動かした」と述べ、日本側の献身的な奮闘への感謝の気持ちを表した。さらに「コンスタンチン君の災難と日本側の真剣な取り組みは、よりよい将来の象徴として大きな意味を持つ」と述べた。

 このような迅速な救命リレーが行われた背景には、北海道庁とサハリン州政府との間の、自治体による地道な外交努力があった。ペレストロイカによって、サハリン州の権限が拡大され、人道的な連係がうまくいったのである。

 4回の皮膚移植手術を受けたコンスタンチン君は順調に回復し、11月23日に退院することになった。津島雄二厚相は、札幌医大のコンスタンチン君を見舞い、ソ連保健相あての「日ソ間の医療協力の緊密化を呼びかける書簡」を両親に託した。

 コンスタンチン君は、両親とともに千歳空港から仙台空港を経て、新潟空港から88日ぶりにサハリンの自宅に帰った。ソ連のマスコミは、コンスタンチン君を「日ソ友好の架け橋となるため、空から舞い降りた天使」と表現した。

 その後、ソ連(ロシア)からはやけどを負ったセルゲイ・アレクセービッチ君(12)、エフゲニー・ポペンコ君(11)が札幌医大病院に、アレクセイ・ブロジャンスキーちゃん(4)が新潟市民病院に、多合肢症のエフゲーニちゃん(1)が金沢大付属病院に入院した。

 国境を越えた医療は、日ソ両国親善のきっかけになった。しかし数千万円近い治療費の支払いが問題になり、善意に頼っていた医療はその後ほとんど行われていない。国境を越えた人道的援助の声援は、熱しやすく冷めやすかった。

 熱傷患者の治療には、善意で提供される皮膚が必要で、患部を覆う皮膚移植が決め手になった。コンスタンチン君の救出劇をきっかけに、「スキンバンク(皮膚銀行)」という新しい流れがつくられた。

 スキンバンクとは、心臓停止後に遺体の皮膚を凍結保存し、いつでも皮膚を提供できる仕組みである。凍結保存された皮膚を、必要時に解凍して皮膚を網の目状に広げて使うので、1人の遺体から採取した皮膚で4、5人の患者の治療ができた。それまではブタの皮膚が使われていたが、人間の皮膚の方が当然優れていた。このスキンバンクは重症熱傷の救命率を高めたが、皮膚を提供する人が少ないため、その存在は次第に忘れられようとしている。

 皮膚の提供は脳死問題とは関係なく、皮膚は提供者が死亡した日に採皮すればよい。採皮部分は、葬儀などの際に目立たない場所を選ぶことができる。スキンバンクは善意で行われる移植医療で、さらなる普及が期待される。