エイズワクチン風説流布事件

エイズワクチン風説流布事件 平成4年(1992年)

 平成4年9月19日、名古屋市で開催された日本エイズ学会で、横浜市立大医学部の奥田研爾教授(細菌学)がエイズワクチンの研究成果を発表した。このワクチンは、エイズウイルスの表面タンパクを人工的に合成してつくったもので、「エイズウイルスへの免疫力を高め、エイズを予防する」との説明であった。奥田教授は、ウサギを用いた実験結果を示し、数人の健康人に対しても投与したことを述べた。

 エイズワクチンの開発を示唆する発言に注目が集まったが、さらに奥田教授は驚くべき事実を明かした。「すでに7月下旬から、未発症のエイズ感染者30人を対象に、タイでワクチンの試験を始めている」と発言したのである。つまり、日本での臨床試験なしに、海外でエイズワクチンの臨床試験を行っていると公言したのだった。

 世界保健機関(WHO)が定めた当時の薬剤の臨床試験ガイドラインでは、「薬剤を開発した国で、最初にその安全性や薬効について臨床試験を行う」としていた。この奥田教授が発表したタイでの臨床試験は、WHOのガイドラインに反する行為で、「人体実験に近く、倫理的な問題がある」との批判の声が上がった。

 これに対し、奥田教授は「安全性は確かめており、タイからの緊急要請があったので試験を始めた。問題はない」と答えた。しかし、日本エイズ学会は「国際的な倫理問題になる可能性がある」として検討委員会を設けることになった。

 奥田教授の発言は、大きな波紋を引き起こした。しかしこの「タイでの臨床試験」は全くのデタラメであった。

 実は、このエイズワクチン開発は、日本エイズ学会に先立つ3週間前の8月26日、東京証券取引所の記者クラブ(兜倶楽部)ですでに発表されていた。その記者会見では、奥田教授のほかにソフトウエア会社「テーエスデー」の松崎務社長と、タイの国会議員の3人が顔をそろえていた。そこで「エイズワクチンの臨床試験を7月末からタイで行っていること、タイでワクチンの合弁事業を行うこと、ロシアでも臨床試験に入る予定」と正式に発表していたのだった。このときの記者会見は、テーエスデーが上場企業でなかったことから、大きな反響に至らなかった。しかしそれでも、それまで730円だったテーエスデーの株価は、発表直後から高騰し、9月8日には3650円までつり上がった。

 ところが、エイズワクチンの開発は、テーエスデーの株価つり上げを狙った虚偽された発言だった。タイでの臨床試験はウソであり、ワクチンの合弁事業も作り話だった。平成4年11月、このことが発覚すると、テーエスデーの株価は570円に暴落。同社は、翌年11月に破産した。

 平成7年7月26日、証券取引等監視委員会は、テーエスデーの松崎元社長を証券取引法違反(風説の流布による相場変動)で東京地検に告発した。風説の流布とは、証券取引法158条に反する行為で、「情報の捏造によって、利潤を図る目的で、相場の変動を意図的なうわさで操作すること」とされている。罰則は、5年以下の懲役または500万円以下の罰金であった。

 平成7年11月20日、東京地裁(山田利夫裁判長)の初公判で、松崎被告は事実関係を認めたが、虚偽ではないと無罪を主張。弁護士は「近い将来、実現する可能性のある事実を大げさに言っただけで、風説ではない」と述べた。しかし平成8年3月22日、松崎被告は懲役1年4月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。

 一方、奥田教授は刑罰を受けることなく、社会的責任も問われず、その後もエイズワクチンの日本における第一人者として活躍した。この事件の後、横浜市大医学部長、横浜市大副学長に就任している。

 なぜ奥田教授は倫理的責任を追及されず、副学長にまで出世したのだろうか。このような事件に関与すれば、関与の度合いにかかわらず、学者生命は絶たれるのが常識である。奥田教授の責任追及がなされなかったのは、横浜市大に優秀な人材がいなかったのか、奥田教授が松崎元社長にうまくだまされていたのか、いずれにしても学者に対する世間の追及が甘い時代だったからであろう。

 昭和56年、米ロサンゼルスに住む同性愛男性に初めてエイズが発見され、昭和58年に原因ウイルスであるヒト免疫不全ウイルス1型(エイズウイルス、HIV-1)が同定された。当初は、同性愛者や麻薬常習者の疾患とする差別的偏見があり、さらには死に至る病気と恐れられていた。しかし近年では、薬剤療法の進歩により、治療法は飛躍的に改善した。

 一方、前回のテーエスデー事件のように、エイズワクチンのニセの開発事件が、世間を騒がせることもあった。しかしエイズワクチン開発は簡単なものではない。ウイルス性疾患であるエイズに対し、当初からその治療法としてワクチン開発が試みられてきた。

 エイズ患者は、全世界で5000万人に達している。治療薬は高価なため、発展途上国では今なお多くの人々が生命の危険にさらされている。安全で、有効で、安価な予防ワクチンに期待が持たれるが、現在に至るまで有効なワクチンは開発されていない。

 エイズワクチンの開発が進まないのは、エイズウイルス特有の遺伝子変異のためである。エイズワクチンを接種しても、人体内でエイズウイルスが変異して効果がなくなり、弱毒生ワクチンを投与しても、弱毒生ワクチンが強毒株に変化し、危険性を逆に高める可能性があったからである。

 エイズウイルスは一般的ウイルスとは違い、C型肝炎と同様にウイルスが人間の遺伝子に組み込まれる特殊性があった。またエイズは気楽に人体実験ができない事情もあった。

 平成5年、中和抗体産生を目指した表面抗原gp120ワクチンが開発されたが失敗。以後、ワクチン開発は遺伝子組み換えによるワクチンへと方向性を変えることになる。その他にも、種々のワクチン開発が進められているが、安全性と有効性について、多くの課題がある。最近、結核の生ワクチンであるBCGがエイズワクチンとして注目され、平成8年からタイでBCGによる臨床試験が進められ、それを推進するためNPO法人エイズワクチン開発協会が日本で設立されている。

 このようにエイズに対し、世界中の研究者が必死で戦っているとき、平成4年に起きた虚偽のエイズワクチン事件は何とも人騒がせであった。この事件の根底には、金儲け主義があった。さらに横浜市大教授という恥知らずの権威者が関与していたことを思うと、何とも情けない気持ちにさせられる。