ムンク

エドヴァルド・ムンク( 1863-1944)
 ノルウェー近代絵画の代表的な画家で世紀末芸術の表現主義の先駆者とされている。父親は医者で、母親はムンクが5歳のときに亡くなっている。14歳のとき姉も亡くなり、母姉ともに結核が原因であった。このことから生活の中に常に死を感じ幼児期~少年期を過ごすことになり、この原体験が後に作品へ色濃く反映されることになる。

 生と死、さらには人間存在の根幹にある孤独、嫉妬、不安などを見つめ人物画に表現した。

 ムンクは学識者を輩出した神経過敏傾向のある家系に生まれ、幼い頃から日常的に死と病に晒されていた。心が不安定になると絵を描いて落ち着けるという治療的方法を、小さな頃から自然に手に入れていた。首都オスロは一握りのブルジョア階級が支配する社会で、芸術においても同様であった。ムンクの師であるクローグはアカデミックで伝統的な表現をもって地位を確立した画家であった。父は経済的に不安定な画家になることを反対し技術者になることを望んだが、結果的に病弱な息子は技術者としての仕事を続けられなかった。

 1881年、オスロのデザイン学校に入学。この頃ノルウェー絵画はまだ写実主義が主流だった。クローグの紹介で思想運動「クリスチャニア・ボヘーム」を知ったムンクは、それまでの常識を逸脱するような作品を発表してはメディアに手酷くこきおろされた。純粋にムンクの芸術に対する批判だけではなく、ブルジョア階級の目の上の瘤であった前衛団体への攻撃が含まれていた。そんな時に奨学金を勝ち得たのが、自然主義の基調で描いた「春」であった。伝統的な技術と流れる品性に裏打ちされた、この時期のムンクの傑作のひとつである。

 1888年にはパリに出てアカデミズムの画家レオン・ボナに学んだ。同時にマネやロートレックなどの印象派の画家たちと出会った。父や奨学金を与えた芸術関係者たちが期待しているアカデミックな作品への感動は少なかった。ゴッホからも影響を受け、ゴッホの渦巻く筆使いは、ムンクの不安をかき立てる絵画の中で使われている。「病める少女」「春のめざめ」はこの年に描き始められている。

 パリでの翌年、「もう読書をする人々や編み物をする婦人の絵は描かない。これからは息づき、感じ、苦しみ、愛する生きた人々を描く」として、「嫉妬」「ヴァンパイア」「マドンナ」などを描く。ムンクの屈折した女性関係はファム・ファタル(宿命の女)として現れる。男を誘惑し、翻弄し、破滅へ追い込む女である。男女の愛を描くのではなく、「愛の葛藤」を描いている。

 ムンクは若いころ端正な顔立ちで、長身な外見で、町を行けば女性が振り返るほどの美青年だった。そのようなムンクだったが、なぜか不倫の恋ばかりで、嫉妬と不安に苦しむ道を選んでしまった。
 30歳頃のムンクが出会ったのは、ダグニー・ユールである。四角関係で、彼女は何リットルものアブサンを顔色一つ変えず飲み干し、夫がいてもまわりの男たちと愛し合い、男たちを嫉妬の暗い闇に引き込んだ。ロシアの青年が狂ったように彼女を愛し、ユールはこの青年にピストルで撃たれて死んでしまう。
 1899年には富豪の娘トゥラ・ラルセンと出会い恋に落ちる。36歳頃のムンクである。しかし1902年(39歳)、ムンクは彼女にピストルで撃たれて怪我をする。結婚を望むラルセンであったが、ムンクは孤独で自由な創作中心の生活を捨てようとしなかった。自ら生の不安を常に感じているムンクにとって、家族や結婚は否定的なものであった。この恋のピストル事件から、ムンクは徐々に神経を病んでいく。

 ムンクは数多くの浮名を流したことでも知られ、「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけ」と語っている。ムンクにとって女性は逆らえず、受け入れがたい存在であった。

 ムンクの芸術は、表現主義者、キルヒナーなどのドレスデンの「ブリュッケ派」に影響を与えた。ムンクの暗くて不安な精神世界を扱った作品は、ストリンドベリ、イプセン、ニーチェら、当時の文学や思想に通じるものであった。

 1908年、強迫観念に苛まれ、アルコールに溺れ、この打撃から立ち直るために祖国ノルウェーに戻り、サナトリウムで長い療養生活を送る。

 ムンクはいつも病気や狂気、死にとりつかれていたが、しだいにムンクの芸術は自伝的な要素を強めていき、自分の心理的弱点を感動的な作品の創造に利用した。幼い頃に感じたように、絵を描くことを病から立ち直る一つの武器とした。キャンバスは心の安定と同期して、生命感を湛えた明るい色とタッチとが徐々に増えていった。祖国ノルウェーに帰って後約35年間には、オスロ大学講堂の壁画など大作を描いたが、多くは肖像や働く労働者などを描き、象徴主義時代の表現力はなかった。

 ノルウェーでは国民的な画家で、現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣に彼の肖像が描かれている。

 叫び

1893年 91×74cm | 油彩・カゼイン・パステル・厚紙 | 

オスロ国立美術館(オスロ)

 愛と死がもたらす不安をテーマに「生命のフリーズ」と題されたムンクの不安系列の代表作。この絵は、ムンクが感じた幻覚に基づいており、彼は日記にそのときの体験を次のように記している。

 「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わり、私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた」

 つまり「叫び」はこの絵で描かれている人物が発しているのではなく、「自然を貫く果てしない叫び」のことで、絵の人物は「自然を貫く果てしない叫び」に怖れおののいて耳を塞いでいるのである。

 人間の不安に共鳴する幻聴を血の朱色で描いた。独特のタッチで描かれた表情が、自然に対する実存的な不安を表現している。夕方のフィヨルドのほとりの道を歩いていたムンクが、まるで血に染まったかのような赤い雲を見て、自然を貫く叫びを感じ表現したものである。赤い空に対比する暗い紺色の背景が、また流れるような渦巻く背景が不安定な感情をより強めている。ムンクがこの絵を発表した際、当時の評論家たちは酷評したが、のちに一転して高く評価されるようになった。2004年に「マドンナ」と一緒に盗難に遭ったが発見されている。

妹インゲルの肖像

1892年

オスロの国立美術館

「春」1889

 生き生きとした生命の光も、病弱な身体には強すぎる刺激となる。ようやく訪れた希望に満ちる日差しを避けるかのように、病の子供は目をそむける。この部屋から出ることは、まだままならないのだろう。明るく幸福感ある色彩との対比に、いっそうその哀しさが際だつ。静謐でクリアな色彩が、印象に残る一枚。

病める子供 1885-6 ムンク美術館

 悲しみに頭を垂れる母と、それを見つめる子供、切ない絵である。透けるように脆く白い肌に燃え立つ赤毛。悲しみに頭を垂れる母に何か応えることもできず、かと言って生きる希望を信じることもできず、やるせない不安にただ耐える日々が続く。病弱な人が直面する「生の不安」を、必要以上の洗練を排して描かれる。当時「未完の作品」と酷評されたことも、時代に先駆けて芸術表現の真髄に触れていた証明として、今となっては賞賛の言葉にとって代わっている。ムンクは記憶に残る母と姉の姿を普遍性をもって描き出した。白い枕はまるで後光のように目を衝く。

マドンナ 1894-5 ムンク美術館

 別名「受胎」とも呼ばれ、聖母マリアを描いたものである。聖母マリアの表現としては変わっていて、若く官能的で身をよじらせて表情豊かなポーズをとっている。聖母マリアは後ろに手を伸ばして背をそらし、自分の肉体に鑑賞者の意識を惹き付ける。このポーズにおいても、聖母マリアは静謐さと穏やかな自信を湛え、目を閉ざして慎ましさを表し、上方からの光によって照らされ、より多く光を身に受けられるよう体をよじらせていることは、受胎告知の場面を描いた従来の表現法の特徴でもある。

 女は死に等しい恍惚の表情を浮かべ、それを血のように赤い光輪が支える。愉悦とともに訪れる死の影。抗いがたい愛憎のさなかにも、ムンクは死を垣間見ているようである。

 

 

罪 1901

 衝撃的な「狂気」を内含する3色刷りの作品。モデルは結婚を拒否するムンクの指を銃の暴発事故で吹き飛ばすこととなった、恋人トゥーラ・ラールセンである。