ジャコブ・カミーユ・ピサロ

ジャコブ・カミーユ・ピサロ(1830年〜1903年)
 19世紀フランスの印象派の画家。ピサロはカリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島で、フランス・ボルドーからきた両親から、四兄弟の三男として生まれた。ピサロの両親はボルドーからこの地に来て小さな貿易雑貨商をしていた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは、11歳時、フランスに渡り寄宿舎制の学校に通う。しかし17歳でふたたび故郷に戻り、しばらくはを雑貨店を手伝っていた。

 セント・トーマス島に住んでいた画家フリッツ・メルビーと知り合いになり、メルビーから画家になることを勧められる。ピサロは画家になることを望み、両親を説得して、1855年に再びフランスに行き、フリッツの兄弟アントン・メルビーの助手となった。
 ピサロは、パリ万国博覧会の美術展でコローやクールベの作品に感銘を受ける。特にコローの作品には感動したらしく、コローのもとを訪ねたりしている。

 パリでは画塾アカデミー・シュイスに学び、そこでモネと知り合う。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。1870年には普仏戦争を避けてロンドンへ渡り、現地で落ち合ったモネとともにターナーらの作品を研究した。
 ピサロは、1874年の第1回印象派展から最後の第8回展(1886年)まで毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品したただ一人の画家であった。
 印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だった。そのため画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていた。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をした。マティスとは印象主義について熱心に討論した。

 ピサロは1885年頃から90年まで、スーラやシニャックの影響で点描画法を試みている。晩年はパリ郊外に住み、描くのに時間がかかり感情が追いつかないとして点描法を放棄し、風景だけでなくピョートル・クロポトキンらのアナキズムの影響を受け、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった。ピサロの息子のリュシアン・ピサロ(1863年-1944年)も画家・木版画家で、リュシアンの娘オロヴィダ・カミーユ・ピサロも画家となった。

ポン・ヌフ

1902年 ひろしま美術館

  幅の広い橋の上を大勢の人が思い思いにざわざわと通りながら、そのひとりひとりの様子や気持ちがよく伝わってきてくる。橋の向こう側にも人がいて、橋を渡った街の中にも雑踏が連なりその先は繋がりがわかるように感じられる。ポン・ヌフの華やかさを描き上げている。

この作品は連作で、さまざまな角度、季節にかかれたテアトル・フランセ広場の絵画である。大勢の人が行きかっている広場のシーンであるが、とても静かな作品である。