世界最高齢者の死

【世界最高齢者の死】 昭和61年(1986年)

 昭和61年2月21日、世界最高齢者である泉重千代さんが120歳と237日で死去した。肺炎と心臓衰弱が死因であったが、もちろん大往生であった。国内のマスコミはもちろんのこと、外電も「120歳、世界最高齢者の死」と世界に報じた。

 鹿児島県の徳之島で生まれた泉重千代さんは、昭和51年に113歳で死去した滋賀県の河本にわさんに代わり長寿日本一となった。昭和54年、114歳の時にギネスブックに長寿世界一と認められ、以後、昭和61年までの7年間にわたり長寿の王座に君臨した。昭和59年には、ギネスブックの表紙を飾っている。

 泉重千代さんが生まれたのは、江戸時代の慶応元年6月29日で、第2次長州征伐の勅許が出た年であった。徳之島は当時、薩摩島津藩領であったが、幕末維新の動乱とは関係なく、ゆっくりと時が流れていた。

 泉重千代さんの仕事は、太平洋と東シナ海を見下ろすサトウキビ畑が広がるなだらかな丘陵地で、サトウキビを栽培して黒砂糖を積み出すことであった。明治37年、39歳で結婚、2人の子供をもうけたが、いずれも若くして他界している。

 朝7時に起きて番茶を飲み散歩。昼寝をして、夜はテレビを見ながら黒糖酒を飲み、夜9時に寝る。たばこを欠かさず吸うのも日課だった。昭和55年には大阪まで飛行機で行き、昭和56年には鈴木善幸首相と対面している。

 昭和60年6月、120歳の誕生日を迎え、徳之島の伊仙小学校の体育館で「泉重千代の大還暦祝賀会」が行われた。大還暦とは還暦(60歳)を2度迎えるという驚異的な長寿をたたえる言葉である。泉重千代さんは有名人となり、本土からの観光客が徳之島へ押し寄せ、自宅前にはタクシーや観光バスが列をなした。

 長寿世界一になった時、報道陣の取材に対し、泉重千代さんは長寿の秘訣(ひけつ)を「酒と女」と答えた。お酒は黒糖焼酎を薄めて飲むのが習慣だった。リポーターが「どういうタイプの女性がお好きですか?」と質問すると、泉さんは「やっぱり、年上の女」と答えて話題になった。

 鹿児島県は、「長寿の秘訣」を徳之島の観光にしようと調査し、徳之島に長寿者が多いのは、冬でも気温が温暖で、特産の黒糖、海産物を食べているためと宣伝した。しかし長寿の秘訣について、泉さんは「人の命は天命で、くよくよせずにジャイアンツの応援をすること」と話していた。現在、海を見下ろす自宅前の丘に泉重千代翁の銅像が建っている。