褥瘡裁判

 【褥瘡裁判】昭和60年(1985年) 

 昭和60年10月13日、毎日新聞は「床ずれは看護の怠慢」という見出しを付け、この褥瘡(じょくそう=床ずれ)裁判の結果を大きく取り上げた。この裁判は看護の質を問うもので、看護師の間でも大きな反響を呼んだ。看護雑誌の多くは特集を組み、この問題にスポットを当てた。

 裁判となったのは、昭和49年12月7日にAさん(61)が脳出血で倒れ、救急車でY市立病院内科に搬送されて入院。入院時Aさんは意識不明の重症で、尿バルーン、胃チューブが挿入されたが、次第に意識は回復してしゃべれるようになった。

 入院1週間後の15日ごろから、Aさんの仙骨部の皮膚に発赤が見られ、20日ごろから表皮が剥離するようになった。約半月で皮膚は壊死をきたし、1月下旬には黒いカサブタ状態になった。褥瘡は日々増悪し、2月12日には褥瘡部(12cm×3cm)の壊死組織の除去手術が行われた。しかし褥瘡は良くならず、褥瘡部は感染症を引き起こし、化膿して発熱を繰り返した。そのためAさんはリハビリができず、病状の回復が大幅に遅れた。そして5年後の昭和54年11月1日、Aさんは褥瘡を悪化させ、褥瘡部からの出血で死亡した。

 Aさんの家族は入院時から付き添い、看護師の口頭による指示で、朝夕の2回の清拭(せいしき)と体位交換を行っていた。看護師は体位交換を家族に言うだけで、実際には手を貸していなかった。

 Y市立病院の内科病棟は98床で、常に満床の状態であった。看護師数は約20人で基準看護師特1類(患者3対看護要員1人)の基準を満たしていなかった。そのため市立病院の看護師は多忙で、褥瘡予防に対応できなかったのである。多忙で手が回らなかったのに、新聞の見出しは「床ずれは看護の怠慢」であった。

 Aさんの家族は、Y市立病院の看護師や医師が褥瘡の治療に積極的ではなく、そのため5年間にわたって苦痛を受けたとして裁判を起こした。裁判では、病院側の褥瘡の予防および治療に過誤があったとして、病院側の損害賠償責任を認め慰謝料100万円での和解となった。法的には看護は看護師が行うもので、家族の付添は看護を補充するものではないとなっていたのである。

 現在、各病院では定期的な体位交換などの褥瘡防止がなされている。この事件の詳細は別として、5年間にわたり入院できたのは病院側の善意を感じるが、これはあくまでも個人的な感想である。