東大脳動静脈奇形事件

【東大脳動静脈奇形事件】昭和60年(1985年) 

  昭和60年2月、千葉県八千代市大和田新田の保険代理業・薮田政和さん(38)の妻悦子さん(29)が頭痛のためA病院を受診した。CT検査の結果、動静脈奇形が疑われたため、東大病院を紹介されて受診することになった。東大病院の放射線科で脳血管撮影を受け、動静脈奇形と診断され脳外科に入院となった。

 正常の脳の血管は、動脈と静脈が毛細血管を介して流れているが、動静脈奇形は脳の動脈と静脈が異常な血管を通して直接流れてしまう先天性の奇形である。血管内圧の高い動脈血が毛細血管を介さずに直接静脈に流入するため静脈内圧が高くなり、静脈の小さな血管がコブのように膨らみ、くも膜下出血や脳内出血を起こす可能性があった。

 この先天性の奇形は、20歳以降にけいれん発作や脳出血を来すことが多いとされている。担当の脳外科医は、これまで悦子さんがけいれん発作を2度起こしていること、29歳と年齢が若いことから、今後、脳出血を起こす可能性が高いと判断。家族と本人の承諾を得て、2月28日に異常血管の摘出術を行うことになった。

 手術は奇形部分を取り除き、動脈と静脈を結紮(けっさつ)するものだった。しかし悦子さんの動脈は脳の深部に、一方の静脈は脳の表面にあり、手術は予想以上に困難だった。手術は約24時間続き、その間8.6Lの出血があった。術後、悦子さんは徐々に意識を取り戻したが、一転して、急に意識低下に陥った。主治医は脳出血が原因と考え、血腫除去のため開頭術を再度行ったが2日後に死亡した。

 夫と遺族は、手術ミスが原因として総額4600万円の損害賠償を求め裁判となった。この裁判で争点になったのは、インフォームドコンセント(説明と同意)が十分になされていなかったことである。東大病院では、過去5年間で40例の手術経験があり、2例が死亡していた。東大病院に限らず、脳動静脈奇形の手術は困難とされているが、主治医は「難治性てんかんと将来の脳出血を予防するために手術が必要」と説得したのは正しいが、手術の危険性を「飛行機事故並みの安全な手術」と説明していたのであった。

 東京地裁の魚住庸夫裁判長は、「手術に過失はないが、担当医師が手術の危険性を患者に十分説明せず、手術を拒否する選択の機会を奪った」として、精神的慰謝料として国に総額660万円の支払いを命じた。手術の正当性、術後悪化時の対応には過失はないが、手術におけるインフォームドコンセントが欠けていたとしたのである。

 医師が手術の危険性を十分に説明していても、本人は手術を承諾したであろうが、しかし裁判では「手術をするかどうかの十分な情報を医師が本人へ与えなかったことを、医師の説明義務違反」としたのである。

 脳動静脈奇形の手術に関する裁判としては、平成7年、愛知県豊橋市民病院で手術を受けた男性(24)が医療ミスで左半身麻痺になったと訴え5272万円で和解している。平成12年、札幌医科大病院で脳動静脈奇形の手術で男性(48)が死亡、5000万円で和解などがある。

 当時の動静脈奇形の根本療法は開頭手術であったが、最近ではガンマナイフによる治療が一般的となっている。「ガンマナイフは見えないメス」といわれ、放射線のガンマ線を病巣に10分間集中照射して脳動静脈奇形を治療する方法である。これまでの開頭手術に比べ、痛みや患者の負担がほとんどなく、それまで手術困難であった深部の病巣も治療でき、数日の入院で退院できる大きな利点があった。まさに医学の進歩である。