勇気ある若者

【勇気ある若者】昭和60年(1985年)

 昭和60年5月26日、横浜市南区で酔っぱらいの介護強盗を、国学院大4年の平野英司さん(22)と友人3人が目撃して犯人を追いかけた。平野英司さんは犯人を取り押さえたが、ナイフで刺され死亡。友人1人も重症を負った。友人は近くの交番に助けをもとめたが、警察官は検問に出ていて不在だった。神奈川県警は総力を挙げ捜査を行い、犯人の無職加藤文男(54)を逮捕し、東京高裁は加藤に無期懲役の判決を下した。神奈川県警は対策として空き交番を解消する方針をたて、国学院大は平野英司君記念奨学金を設けた。

 昭和60年12月30日未明、東京都品川区蒲田一丁目のスーパーに刃物を持った男性が押し入り、レジにいた女性店員に刃物を突き付けた。女性の悲鳴に気付いた女性の息子の山田道晴さん(24)と男性がもみ合いとなり山田さんは左腕を刺された。男性はレジにあった7万7000円をわしづかみにして逃亡。偶然、通りかかった明治大工学部1年生の滝口邦彦君(20)が、山田さんの叫び声を聞いて強盗の追跡に加わった。滝口君は強盗に追いつき格闘となったが、滝口君は犯人に腹を刺された。救急車が要請され、救急隊員が大学生を収容。救急隊員は救急医療情報センターを通して、受け入れ先の病院を探したが、5つの病院に断られ、6番目の第三北品川病院が受け入れてくれたが、救急車到着から34分が経過していた。病院の努力にもかかわらず、勇気ある若者は出血多量で死亡。死亡したのは明治大工学部1年生の滝口邦彦君(20)であった。もしすぐに病院に搬送されていたら助かったかもしれないと多くの人が涙を流した。救急病院の受け入れ体制の不備が、勇気ある若者の生命を奪ったと思った。この勇気ある若者のニュースは、新聞やテレビで取り上げられ、正義感から犯人を追跡して凶刃に倒れた若者に同情の世論が沸き上がった。

 東京地裁の柴田孝夫裁判長は、「病院収容が20分程度遅れた事情はあるが、受傷後10分ぐらいで死亡にいたるほどの重傷だった」として、救急医療体制の不備が滝口さんの死につながったと主張する犯人の山内清孝の弁明を否定、山内清孝の行為と滝口さんの死の因果関係を認め、さらに「正義感から追跡に加わり、凶刃に倒れた被害者の義心と行動は称賛に値する」と滝口さんをたたえた。犯人の山内清孝には求刑とおりの無期懲役が言い渡された。

 裁判官は救急医療の不備を指摘しなかったが、この事件をきっかけに、東京都は都内13カ所の救命救急センターとの間に直通専用線(ホットライン)が設置することにした。厚生省は各救命救急センターに対し、「救急患者の受け入れの責任者を決めておくこと、当直医が対応できない場合には、ほかの医師が対応できるように体制を整えておくこと」などの通達を出した。

 当時、救急隊の医療行為は法律で禁じられていて、患者を助けたくても救命行為ができずに、患者の運び屋にすぎなかった。このことから、救命措置のできる救急救命士の法的整備が必要とされ、救急救命士法が平成3年4月に成立した。

 勇気ある若者の咄嗟の行動には頭が下がる。彼らの行動をとやかく言う者はいないであろう。しかし彼らが犯人を追わなければ、若い命を失うことはなかった。人命救助のための行動ならば彼らの死は報われるだろうが、奪われた数万円のために、人間のクズと引き替えに自分の貴い命を落としたことは残念である。このような世知辛い世相の中で、彼らの人間らしい正義感に賞賛を送りたいが悲しすぎる。