チェルノブイリ原発事故

チェルノブイリ原発事故 昭和61年(1986年)

 昭和61年4月27日の朝、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、放射能漏れのアラームが鳴った。大気中から通常の100倍もの放射能が検出されたのだった。原発事故を起こしたと思った技術者は、すぐに原子炉の運転を中止し周辺の住民600人を避難させた。

 しかし調査の結果、フォルスマルクの原子炉はいずれも正常に稼働していた。この異常な放射能は、時間とともに隣国のフィンランドやノルウェー・ポーランド・東ドイツでも検出された。北欧各国の政府は外出を禁止し、飲料水や牛乳などを飲まないように注意を呼びかけた。

 この国境を越える放射線汚染がどこから来たのか、世界中が注目する中、欧州では不安と緊張が高まっていった。当初、この正体不明の放射能汚染について、ソ連の核実験が疑われた。しかしスウェーデンの地震計には、核実験を示す波動は見られなかった。そのため、風上にあるソ連での原子力発電所の事故疑惑が次第に高まってきた。やがて原発事故発生のうわさが世界中を駆け巡った。

 スウェーデン政府はソ連政府に原発事故の有無を問い合わせたが、ソ連政府はその事実を否定した。当時、ソ連共産党の書記長としてゴルバチョフが登場し、ペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)を掲げ、ソ連は旧体制からの脱皮をスローガンにしていたが、ソ連の首脳たちは5日後に控えたメーデーが終了するまで情報を公表しない方針でいた。

 ソ連政府は、チェルノブイリ原発事故を隠そうとしていたが、それは無理であった。米国のスパイ衛星が原発事故を明らかした。チェルノブイリ原発の爆発現場の鮮明な写真を、原子炉の屋根が無残にも吹き飛び、火災が発生している様子を、スパイ衛星が全世界に発信したのだった。

 この写真を突きつけられたソ連政府は、それまで隠していた原発事故を渋々認めることになった。スウェーデンから1500キロ離れたチェルノブイリで、史上最大の原発事故が起きていたのである。ソ連政府が原発事故の事実を認めたのは、事故から3日近くが過ぎた28日の夜になってからである。

 チェルノブイリは、旧ソ連ウクライナ共和国の首都キエフから北方130キロに位置している。この史上最大の原発事故は、昭和61年4月26日、午前1時23分に起きた。チェルノブイリ原子力発電所の4号炉(出力100万キロワット)では、事故前日の25日から停電を想定した実験が行われていた。

 実験は、原発を動かす電源が停電で止まった場合、原子炉を完全に冷却できるかどうかを確認するためのものであった。つまりタービンの回転慣性を利用して、非常時の電源とするための実験であった。原子炉を停止させるには、制御棒を原子炉に入れて核反応を抑える必要があった。実験は日付が変わっても続き、順調に進んでいた。しかし、原子炉を停止させるために「緊急用制御棒ボタン」を押した直後、原子炉が暴走した。

 突然、熱出力が急激に上昇し、警報機が鳴った。そして数秒後、核燃料が超高温となって炉心が融解し爆発を起こした。いったい何が起きたのか、技術者は誰も理解できなかった。自動車のブレーキを踏んだとたん、暴走したようなものだった。ウランが落下、冷却水が瞬時に沸騰して水蒸気爆発が起き、その直後に原子炉そのものが大爆発したのだった。

 原子炉を覆っていた1000トンの屋根が吹き飛び、落下したクレーンが炉心を破壊し、放射能を含んだ灰が上空に舞い上がった。原子炉の構造体である黒鉛200トンが燃えながら吹き出し、建物の30カ所で一斉に火柱が上がった。

 チェルノブイリ原子力発電所の4号炉爆発から数時間後、消防隊によって建物の火災は消火された。しかし暴走した原子炉の消火は困難を極めた。ヘリコプターが上空から5000トンの砂や2000トンの鉛を投下し、鎮火しようとしたが原子炉は燃え続けた。

 消防隊は放射能を浴びながら決死の消火活動を行った。それでも原子炉は燃え続け、上空からヘリコプターが砂や鉛を投下するたびに、原子炉から灰が舞い上がり、大量の放射能が大気中に放出していった。上空に舞い上がった放射性物質は北西への風に乗り拡散していった。

 原子炉の火災が鎮火したのは、事故発生から10日後の5月6日のことである。隣接する3号炉から穴を開け、そこから窒素を送り込み、原子炉を無酸素状態にして鎮火したのだった。しかし、それまでの10日間に原子炉から放出された放射能は、北半球のほぼ全域を汚染した。

 チェルノブイリ原発事故は、米国スリーマイル島の原発事故(昭和54年)をはるかに上回る史上最大の事故となった。消火作業に駆けつけた大勢の消防士や原発職員は、大量の放射能を浴び31人が死亡し300人が病院に収容された。

 チェルノブイリから4キロ離れたプリピャチ市からも、この火災事故を見ることができた。人口5万人のプリピャチ市は、原発関係者のためにつくられた街で、市民たちはチェルノブイリの事故をその当日から知っていたが、放射能の危険性を知らず、対策は打たれないままであった。

 多くのプリピャチ市民は、何もなかったように普段通りの土曜日の朝を迎え、子供たちはいつものように学校へ行った。彼らは、無防備のまま放射能にさらされていた。アパートの屋上で、煙を吐く4号炉を眺めながら日光浴をしていた人もいた。

 プリピャチ市民に避難命令が出たのは、事故翌日の27日になってからである。市民たちは1200台のバスに分乗して避難、プリピャチ市は無人の街となった。

 事故から10日が経った5月6日、チェルノブイリ原発を中心にした半径30キロの住民13万5000人が強制退去となった。住民はそれまで放射能にさらされたままであった。原発事故によって放出された放射性物質はセシウム137で、その量は広島原爆の350個分に相当していた。

 原発事故による放射能は、南風に乗り、ソ連はもとより北欧にまき散らされた。放射能汚染物質が大量にばらまかれ、北欧では農作物の放射線汚染が次々に明らかになった。市場に出回った食肉・牛乳・ワインなどが回収され、日本に輸入されていた食物も処分されることになった。

 さらに、上昇気流に乗った死の灰は、成層圏まで達し世界中を覆うことになった。事故から1週間後の5月2日には、8000キロ離れた日本でも通常量の数十倍の放射能を含んだ雨水が検出された。ジェット気流に乗って、死の灰が日本にも届いた。

 事故から4カ月後の8月、ソ連政府はチェルノブイリ原発事故の原因は「作業員の規則違反によるミス」と発表した。もちろんこれはソ連の事故隠しであった。ソ連政府は事故から4年後に、原発事故は原子炉の設計ミスで、原子炉を完全に停止させていれば事故は起きなかったと発表した。原子炉の自動停止装置を外し、安全装置を遮断し、制御棒を全部引き抜くと暴走状態する設計ミスで、作業員の捜査ミスではなかったのである。昭和50年に、同様の現象がレニングラード原発で起きており、制御棒の欠陥が指摘されていた。ソ連では同型の原子炉が数多く稼働していたにもかかわらず、原子炉の構造欠陥を知りながら対策を怠り、その危険性を現場に伝えていなかった。

 ソ連政府は、チェルノブイリ4号炉にコンクリートを流し込み、石棺(せきかん)にして閉じこめたと発表。さらに住民には放射障害は認められないとしたが、この発表を信じる者は少なかった。

 放出された死の灰の70%がウクライナ共和国の北に隣接するベラルーシに降り注ぎ、3分の1が放射能汚染地域となった。ベラルーシでは数十万の人々が移住を余儀なくされ、数百の村が廃村となった。このチェルノブイリの原発事故で最も厄介だったのは、セシウム137(半減期30年)による放射能汚染であった。セシウム137の汚染密度が、1平方キロ当たり15キュリー以上に達する高度汚染地域面積が1万平方キロに達し、汚染地域の面積は約13万平方キロであった。この面積は日本の国土の60%に相当していた。

 汚染地域には700万人が住んでいて、汚染除去に70万の人が従事するが、これだけの広い面積である。汚染除去は進まず被曝者を増やすことになった。市民団体「チェルノブイリ同盟」は、この汚染除去に従事した200人に1人が放射線障害を受けたと発表した。

 ソ連政府は死者61人、汚染の除去作業を行った5万人が重度の放射線障害を受け、被曝者総数は57万人以上と報告した。被曝地区の住民が受けた放射線量は、許容範囲の5〜6倍で、汚染地区の農作物や家畜を食べないように指導された。被害地に住む農民は食べることも売ることもできず、農作物を作れない生活を強いられた。被曝者のがんの死亡率は非被曝者の3倍以上であり、放射線障害は10年以上経ってから起きてくるので、被曝者のがんが急増している。さらに、がんや白血病となる不安は現在も尽きない。

 国連は、汚染地区の小児に甲状腺がんが多発し、発症頻度は世界平均の100倍を超えていると発表。事故当時2、3歳の子供たちが思春期を迎えるころになると、甲状腺がんが多発したのだった。

 信州大医学部外科助教授・菅谷昭は、放射線障害で甲状腺腫瘍になった子供がいることを、テレビ番組で偶然に知った。チェルノブイリ原発の風下に当たるベラルーシ共和国では大量の放射能を浴びた子供たちに甲状腺腫瘍が多発していた。

 菅谷は、現地の病院で手術を受けた子供たちの首筋に醜い傷跡が大きく残っているのを見て心を痛めた。彼は、甲状腺専門医として、ウクライナ共和国の北隣のベラルーシ共和国に渡ることを決意。信州大医学部を辞職し、平成8年から5年半にわたり高度な手術で子供たちを救い、現地の医師たちに傷口の目立たない手術法を教えた。彼の行動は日本人として立派な行動であり、帰国後、松本市民に推され松本市長になった。

 このチェルノブイリ原発事故は、原発への世界中の人々の意識を大きく変えた。原発事故を教訓に、スウェーデン・ドイツは原発を段階的に取りやめることを決定。日本の世論調査では、チェルノブイリ原発事故までは原発賛成派が6割を占めていたが、事故以降は反対派が6割を占めるようになった。エネルギーの需要から、世界的に原発への期待が膨らんでいたが、この原発事故が世界中の世論を変えてしまった。

 チェルノブイリ原発事故から、すでに20年以上が経過している。原発4号炉は、放射能が漏れないように石棺で封じられている。しかし急造された石棺は脆弱で、老朽化から所々にヒビが入っている。そのため原子炉の周辺はいまだに放射線濃度が高く、近づけない状態にある。この石棺が崩壊すれば、世界は再び放射能汚染にさらされることになる。