DNA鑑定

DNA鑑定 昭和60年(1985年)

 DNA鑑定法は、英国のアレック・ジェフリー博士が考案し、昭和60年の科学誌「ネイチャー」に初めて報告した方法である。DNAは、Deoxyribonucleic Acid の略で、「デオキシリボ核酸」のことである。遺伝情報の元であるDNAは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4種類の塩基で構成され、この塩基の配列よって遺伝情報がつくられている。人間のタンパクをつくる遺伝子情報は同じであるが、DNAには各個人によって塩基配列が異なる部位がある。その異なる部位のDNAの違いを分析して、個人を鑑定するのがDNA鑑定法である。

 1卵性双生児を除けば、DNAの配列はすべての人間で違っていいて、個人のDNAは生涯変わることはない。このことからDNA配列を調べれば、完全な個人鑑別が可能だった。制限酵素という酵素を用いてDNAを切断し、制限酵素が認識するDNAの部位が個人で異なっていることから、その断片化したDNAを、電気泳動により画像化することによって、DNAの違いを観察できるのである。

 DNA鑑定法は毛髪、体液、皮膚などから採取するが、DNAがごく微量でもPCR法(合成酵素連続反応法)で増幅させ分析することができたのである。ジェフリー博士のDNA鑑定法が発表された翌年には、警察庁・科学警察研究所もDNA鑑定法の研究に着手している。

 平成3年1月22日夜、茨城県内の路上で、軽自動車を運転していた23歳の女性が、後からきた自動車のクラクションで停車させられた。自動車から降りてきた男性は、女性の軽自動車の運転席に乗り込むと、女性の衣服をはぎ取り後部座席で暴行を加えた。

 同月29日夜、同じ茨城県内で22歳の女性が運転する自動車が後からパッシングを受けて停車させられ、自動車から降りた男性は、女性を付近の農道に連れ込み、全裸にして暴行を加えた。埼玉県東村山市でも、同様の手口による婦女暴行事件が起きた。

 犯人は、盗んだ他人の自動車のナンバー・プレートを付け、次々と若い女性に暴行を加えていった。この事件から数週間後、茨城県三和町の酒屋に包丁を持った男が押し入り、強盗致死傷の現行犯で逮捕された。取り調べの結果、元造園業者の新井正男(42)が、連続婦女暴行事件にも関与していたことがわかった。

 新井正男は酒屋での強盗致死傷は認めたが、連続婦女暴行事件については否定していたが、暴行現場の目撃証言が信用できること、偽装したナンバー・プレートの自動車が目撃されていたことが有力な証拠となった。さらに自動車のシートカバー、自動車に残されたちり紙、被害者の体内に残された精液の血液型とDNA型が、新井正男の血液から採取されたものと同型であった。精液の血液型・DNA型は1600万人に1人の確率で新井正男のものとされた。この事件当時、DNA鑑定はあくまでも参考証拠で、物的証拠としては採用されなかったが、この事件でDNA鑑定が初めて日本の法廷に登場したのだった。

 この事件の1年前の平成2年5月12日、栃木県足利市の渡良瀬川河原で松田俊二さんの長女真実ちゃん(4)が殺害される事件があった。その日の午後6時頃、真実ちゃんは父親とパチンコ店へ出かけ、初めのうちは父親のパチンコを見ていたが、やがて退屈になり店の駐車場で遊んでいた。8時頃に父親が娘の姿が見えないことに気づき、店の周辺を探したが見つからなかった。父親は9時45分頃足利署に連絡、警察官や消防隊員100人が徹夜で探し回ったが発見できず、翌朝の10時20分頃、パチンコ店から約500m離れた渡良瀬川の茂みの中で、真実ちゃんは全裸遺体となって発見された。

 死因は首を絞められての窒息死で、死亡推定時刻は前夜の7時半頃だった。現場付近は人通りが多かったが、有力な目撃情報はなかった。しかし間もなく、中年の男性が真実ちゃんらしい女児の手を引いて河原の土手を歩いていたという目撃情報が寄せられた。

 この事件で1日平均100人の捜査員が、1年7カ月にわたり動員され、必死の捜索が続けられたが捜査は困難を極めた。捜査員が必死になったのは、真実ちゃんの殺害のほかにも、似たような事件が連続していたからである。

 昭和54年と昭和59年に、いずれも5歳の少女が、昭和62年には8歳の少女が、足利市周辺で同じような手口で誘拐され殺害されていたのである。これらの事件は未解決のまま、真実ちゃんの殺害と同一犯によるものと考えられていた。

 捜査本部は市内の不審者や変質者4000人を絞り込み、アリバイを調べては1人1人消去していった。そして保育園の元バス運転手、菅家利和さん(45)が捜査線上に浮かんだ。菅家さんは、ビデオや雑誌を愛好し、事件当日のアリバイがなかった。

 捜査員は1年間にわたり菅家さんの内偵を行い、菅家さんが捨てたゴミ袋から体液のついたティッシュぺーパーを入手し、真実ちゃんの衣服に付着していた精液とDNA鑑定を行った。その結果、菅家さんのDNAが真実ちゃんの衣服に付いていたDNAと一致、同一人物と断定された。この鑑定結果を突き付けられ、菅家さんは犯行を自白するに至った。この事件でDNA鑑定が初めて犯人逮捕の決め手となった。

 しかし裁判になると菅家さんは一転して無罪を主張。そのため裁判では唯一の物的証拠であるDNA鑑定の信用性が焦点となった。弁護側は「DNA鑑定は個人を特定するものではない」と無罪を主張したが、平成5年7月、宇都宮地裁は「犯人と被告人の血液型およびDNA型が一致する確率は1000人に1〜2人程度」とする警察庁・科学警察研究所の鑑定結果を評価して、無期懲役とした。菅家さんは上告したが、事件発生から10年後の平成12年7月、最高裁の亀山継夫裁判長は「DNA鑑定は、科学的に信頼できる方法で証拠となり得る」として無期懲役が確定した。この足利事件は、日本で初めてDNA鑑定が逮捕の根拠となったもので、マスコミも大きく報道し、また裁判でも証拠として認められ、DNA鑑定が法的に認知された。

 それまでは血球型が個人の鑑別に用いられていた。しかし日本人はA型が40%、B型が20%、AB型は10%、O型は30%で、つまり犯罪現場の血液型がA型だったとしても、ABO式血液型だけでは犯人を特定できなかった。しかしDNA鑑定が導入され、鑑別の精度が飛躍的に向上し100万人に1人まで個人識別が可能になり、DNA鑑定は「血液の指紋」とまでいわれるようになった。このため足利事件以降、警察庁だけでなく各都道府県警にある科学捜査研究所や大学の法医学教室にもDNA鑑定が広く普及している。

 このようにDNA鑑定が絶対的に信頼できるものだとしても、落とし穴があった。足利事件で菅家さんは犯人とされ、宇都宮地裁で無期懲役となり、平成12年に最高裁で上告が破棄され無期懲役が確定した。菅谷さんは17年半の間、生活をうばわれたが、菅谷さんは冤罪だったのである。DNA鑑定を最新の方法で行ったところ、菅谷さんのDNAは犯人とは別人だったのである。この大きな間違いは、DNA鑑定の精度が向上したせいと思われていたが、逮捕当時の古い方法でDNA鑑定を行ってもDNAは別人だった。つまり当時の科学警察研究所の鑑定そのものが間違っていたのだった。つまり血液型A型をB型と間違ったのと同じ、単純な間違いだったのである。この間違いにより菅谷さんは17年半にわたり自由を奪われたが、やっと無罪になった。

 現在、DNA鑑定は個人識別として広く用いられるが、識別が正しくても、菅谷さんの例が示すように、鑑定を読み間違える人為的ミスの可能性がある。

 平成9年3月の、いわゆる東電OL殺人事件でもDNA鑑定が問題視されている。この事件は、慶応大を卒業して東京電力に勤めていた39歳の管理職の女性が、渋谷の安アパートで殺害され、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(30)が犯人として逮捕された。マイナリが犯人とされたのは、殺害された部屋に残されたコンドームの精液が、DNA鑑定でマイナリのものとされたからである。それ以外にも状況証拠はあるが、それらはあくまでも状況証拠で、決定的証拠はなかった。そのためDNA鑑定が裁判の争点となり、マイナリは精液を自分のものと認めたが、それは殺害前に同女性と関係した際に使用したもので、殺害時のものではないと主張したのである。

 この事件が多くの話題を呼んだのは、一流企業の管理職女性が昼と夜の顔を使い分け、行きずりの売春を行っていたことである。またこの事件は国際的な冤罪になる可能性があった。このような話題性から数冊の本が出版された。東京地裁はマイナリを無罪としたが、東京高裁は無期懲役と逆転判決を下し、最高裁は被告人の上告を認めずマイナリの無期懲役が確定した。

 DNA鑑定は犯罪捜査として進歩したが、親子鑑定にも用いられている。親子鑑定は、遺伝情報のDNAが母親と父親から子供へ半分ずつ受け継がれることを応用したものである。親子鑑定は、男性に認知を求める認知請求、父親(夫)が自分の子供ではないと訴える嫡出子否認請求の2つが大部分である。

 最近、日本では10社以上の民間業者が親子鑑定をやっている。検査は採血する必要はなく、口腔内の粘膜からぬぐい取った細胞を用いる。民間業者は試料を受け取り、検査は米国の企業で行う。民間業者の経営が成り立つのだから、それだけの需要があるのだろう。